見出し画像

「今の闇」、三度~或いは私だけの「緑の日」~

ピロリン、ピロリン、と形容するには、あの音は高すぎる。神経質な小鳥が、寝不足のために喉をやられたような―――つまり今の私のような―――掠れた甲高いさえずり。強いて書くなら、「キィロリン、キィロリン」…あの音の無い病床はなんと心穏やかなことかと、針の食い込んだ手の甲の痛みを庇いながらうつらうつらしていた。
それが火曜日のことだった。
町の内科医は半覚醒の私の枕元までわざわざやってくると、「13,000」という数字を指しながら今から点滴に抗生物質を混ぜると告げた。普通は8,000くらいまでの白血球が、私の身体の中では今5,000も多い。2年前の夏、毒を以て毒を制するかのような治療でジリ貧かと思われるほど減った彼らは、今や「多すぎるね~」と医師に言われるほど増殖しているのか。この2年で、私は「普通の身体の機能」を取り戻しつつあるらしい。
あの夏の点滴と違って、この点滴は鳴かないから、いい。それでも滴る雫を見つめていると、どこか遠い夢の彼方から、キィロリンキィロリンが迫ってくるような気がして目を閉じた。

土曜から始まった息子の看病がようやく済んだと思った月曜の夜、私の身体はたった一人個人的に凍えた。それが悪寒だと気付くのには少し時間が要る季節ではあるけれど、夫が何食わぬ顔で季節外れの半袖シャツを着ているのを見て、私の体感温度が狂ってしまったのだと察した。
羽毛布団をかけ、毛布をかけ、もこもこの靴下を履き、パジャマを2枚着ても私は寒さのあまり縮こまる以外のことができなかった。やっとの思いで体温計を手にすると、「38.9」。久しぶりの高熱だった。

何かしらの流行り病かもしれない。そう思って再受診した内科小児科を掲げる町医者で、私は点滴に繋がれた。
熱は37.2くらい。帰りはタクシー代が勿体ないので歩いて帰った。
仕事を休んで点滴までしたのに、なんだかすっかり元気。そんな自分が少し可笑しかった。そのままそのまま、またすぐ「元気」になると思ったからこそ、可笑しく感じられた。

まさかその2日後に、あのキィロリンキィロリンの群れの巣に、ケチッたタクシー代の何倍もの交通費を払って向かう事になるとは思ってもみなかったから。

緑のパーカーを卸した。
ユーエスポロアッスンのそれは、写真で見たより黄みが強くて、似合うものではなさそうだったけど、眼の周りを黄みの強いブラウンで塗って無理矢理似合わせた。
緑は、オレンジと並んで私のクロゼットには少なくとも20年は無かった色だった。赤か青。それが淡くなったり濃くなったり。もしくはグレー、黒。エスニックだろうとコンサバだろうとロリータだろうとカジュアルだろうと、選ぶ色彩は少女の頃から変わらなかった。
でも、緑ばかり着ていた彼女を喪ってから、私はときどきそっと、何かの秘密を打ち明けるかのような微かな動悸を胸に、緑の服を買うようになった。
緑は似合わなかった。
やはり、彼女以上に美しく緑を着られるひとなどいなかった。
だから私が緑を着る日は、自分を美しく見せたい日ではない。それは決まって、彼女を取り戻したい日、そして彼女の方へ向かっていきたい日だった。

ティーンの頃から散々私のファッションセンスを貶してきた母は、私が緑を着るようになったことに気が付いていないようだった。
母は私を駅まで送り届ける数十分で、限定の化粧品を買い逃した話、仮想通貨で儲けた話、内縁の夫と営む飲食店が繁盛している話などを一方的に語った。そして思い出したように「なんでがんセンター?また心配事?」と訊いた。
「ううん。副作用が強く出ている気がして」
母は「ふぅん」と気の無い返事をした。昔の私なら憤慨しただろう。期待をしなくなってから、母との話は20時のバラエティ番組の雛壇に向けて一人ごちてるような気持ちになる。私がなけなしの金で似合いもしない緑のパーカー、緑のTシャツ、緑のブラウス、緑の帽子を買い集めていても、母には関係ない。そして母が謎の海外企業から買った仮想通貨で富を築いていても、私には関係ない。
「今週一度も出勤してないや」
「仕方ないじゃん。具合悪いんだから」
とか、
「先生が診察してくれるの?」
「ううん。看護師さんに会いに行く。身体じゃなくて、心の方だから」
「あぁ、また気落ちしちゃってるんだ」
とかいったやり取り。
期待の無い会話は静かだった。
「帰りはタクシーで帰りな」
羽振りの良い母は、そう言って2,000円をくれた。

今日に限って電車は遅れていた。バスならまだしも、この令和の今に、しかも普段は滅多に使わない交通手段が、遅れている。一事が万事ツイていない。
田舎ならではの3両の列車。目を惹く可愛らしい女子大生の斜め前に座った。目も鼻も口も、好みだった。盗み見ているうちに、彼女の服が可愛い子にしか似合わないタイプのセットアップであることに気付き、私は急激に身勝手にシラけた。「私は可愛い」という自信。自分が喪ってから久しいそれを、若い彼女が確かに持っている姿が、寝不足の目をキリキリと抉った。
「癌になって変わった。でも治療のためなら仕方ない」
夫がそう語るとき、それはタモキシフェンによる気分障害ばかりを指しているのではない。夫の目を惹いた、ネイビーのニットの裾を花柄のフレアスカートに仕舞い込み華奢な腰周りを強調させたあの女が、目の前にはもういないということなのである。
この2年半、夫が何度そんな言葉を苦しそうに吐いたかわからない。変わらざるを得なかった私の方が、その何倍も苦しいのに。

バスから見える私の「ホーム」は孤城のようだった。自分が何度も駿河湾を見下ろしたはずの窓を思わず見つめてしまう。29歳の4月だった。20代の女が乳房を喪うというのに、あの頃の私はいやに元気だった。健全だった。あの時だって散々泣いてはいたけれど、明るさもあった。あの頃はまだ彼女は生きていたし、私は病棟で囲まれては「若いわね!高校生かと思った!」なんて言われていた。
あれから、私の癌が随分性悪なことを知り、髪の毛が無くなり、彼女が亡くなり、私はオジサンに見えるオバサンになり、そうして今、病んだオバサンになった。
何もなくなったことと、どう違うんだろう。

検査を控えているときは、逃げたしたいくらい恐ろしい場所なのに、全摘手術のために入院した時も、抗がん剤に通いつめた時も、ホルモン療法の注射を打ちに行く時も、そしてこうして急に訪れるときも、淡いブラウンとグリーンの外観を見ると心は心地よくシンとした。
ここは私を救う場所。癌からではなく―――もちろん癌からでもあってほしいと願ってやまないが―――右乳房の欠落した胸の、もっともっと深く、もっともっと傷だらけの場所に絶えず渦巻く激しい激しい嵐から、ほんのひととき救ってくれる場所。
癌は私の人生を完膚なきまでに叩き壊したが、いつの間にかがんセンターは今まで過ごしたどんな場所とも違う「ホーム」になっていた。キィロリンキィロリンという囀ずりはまだ私の呼吸を乱すけど、それでも、もうどうしようもなく嵐が抱えきれなくなると、私の足はいつもここに向く。
母も夫も息子も居ない、私がいつでもたった一人で戦い、そしてこれからもたった一人で戦っていくだろう場所は、戦場にしては長閑だった。

前回来てから、まだ一月も経っていなかった。前回は2年半検診をし、エコーの結果を恐れるあまり無理矢理診察までしてもらい、主治医から半ば怒られるようにして2年半検診クリアを告げられた日だった。苦い記憶はまだ新しかった。
あの時からこの嵐は小さく渦巻いていて、結局検診結果の如何に関わらず消えることはないまま、むしろ日を追って大きくなり今日を迎えたのだ。
前回の経緯があったからか、認定看護師さんはすぐに来てくれた。看護師さんが受付で私の名前を確認する声は、妙な緊張を帯びていた。2021年、初夏から中秋にかけて一人ハロウィンのごとく珍妙なファッションで元気に抗がん剤に通っていた私という患者は、今や「ワレモノ注意」とでもいうようなラベルを貼られてしまったようだった。子供の頃から突貫工事を続けて形を保ってきた私の心は、ホルモン療法の始まりと共に腐蝕し少しでも押せば簡単に壊れた。何度も壊れ、その度に破片が飛び散る距離は伸び、次に崩れたらもう全てのパーツは揃わない気がした。
私は、熱が下がってからも2日間、出勤できていない。
癌になり足元から人生の全てがちゃぶ台返しされても仕事を愛する心だけはしぶとくその天板にこびり付いていた。
でもホルモン療法で過敏になった心が、愚鈍になった頭が、醜悪になった容姿が、そもそも何かを楽しむという気持ちさえ奪ってしまった。
夫に呆れ育児に発狂しても、仕事は私の芯だった。誰にも奪えないと思っていたのに。
いつからか、デスクに座っているだけで逃げ出したくなるようになった。健康で、物怖じせずに未来を語り、永遠に働けるかのように話す同僚たちの中で、自分の人生が人よりずっと短いかもしれないという事実はその影をどんどん深めた。
年齢だけなら私と変わらないはずの同僚たちは常に自分より10は若く見えた。自分より10は年上の同僚たちの人生は自分より50年は長い気がした。
何から始まったのかはわからない。全てが全ての始まりかもしれない。私は仕事を嫌うのを飛び越えて恐れるようになった。
そして久しぶりに高熱を出したあの日、仕事を休むハードルは年休の残数に反比例して限りなく低くなった。

対応してくれた認定看護師さんは、偶然にも2年半検診で私を励ましてくれた方と同じだった。
彼女は私を通いなれた番号の診察室に通した。ギュッと縮こまりそうになった背筋が、そこに主治医が居ないことを認めるとふんわりと弛緩した。今日はそもそも主治医の外来の曜日ではないことを思い出したのはそのしばらくあとだった。
「今が今までで一番精神状態が悪い」つい3週間ほど前の主治医の言葉が過る。主治医はそんな私を責めずに、「命がどうこう(という病状)じゃないからね」と言い聞かせた。あのとき私を責めたのは私だった。あれから主治医に会わせる顔がない。
看護師さんは私を座らせるなり、
「今回もあのこと?お父さんのことかな?」
と切り出した。
父に癌が見つかったと報せを受けたのは私の誕生日の少しあとだった。私たちは父からの「死んじゃえば?」というLINE以来絶縁していたから、教えてくれたのは叔母だった。叔母への義理や祖父母への同情から、私は父を赦し、癌患者の先輩として入院に付き添い、テレビカードを買い与えすらした。父の症状は重く、先の「命がどうこうじゃない」という発言は、我が主治医が父の病状と私の病状とを比べての言葉だったのである。
初めて父の通院に付き添い、父の主治医に見え、父の病気がいかに篤いかや、残された時間のリアルな数字を聞かされた時は、診察室で過呼吸を抑えるのに必死だった。父を喪う恐怖より、自分に同じような未来があるかもしれない恐怖や、4月に癌で亡くした祖父の最後の一呼吸、見てもいないはずの彼女の死に顔などがぐるぐる脳裏を廻った。一言で言うなら、堪えていた。
そんな話を聞いたら当然だが、主治医や看護師は前回の診察の折り、私に父との付き合いをやめるよう忠告した。特に主治医の語気は今までにない荒さだった。父が聞いたら卒倒しそうなレベルの悲観的予測さえ持ち出してきた。
だが主治医の絶望的展望とは裏腹に、父の治療は異常に奏効し、私の息子の誕生日を祝いに小一時間車を運転できるまでになった。
なので看護師から父の話を振られて私は一瞬戸惑った。現代医療のお陰で今のところ父の病についてはだいぶ心痛が減ったのであった。
私は父の治療の成果を告げ、今の私の嵐の正体を探るように語り出した。語っている私自身、もうその全貌はわからなかった。
看護師はメモを取りながら、時折なんてこったとでも言いたいような沈んだ相槌を打ったり、「それは困ったね…」と口に出したりした。
私の話はできもしない知恵の輪に取り組む指先のように行ったり来たり、同じところをまた回ったり、一周しかけて引き返したりを繰り返した。
夫のことや母のこと、職場のこと、仕事に足が向かないこと、私の取り返し付かないレベルで崩れ行く容姿のこと、類い稀なる美貌を持ったまま逝ってしまった彼女のこと……着地点を見失った私の話は、「実は他にもケアを待ってる患者さんがいてね…」という看護師の言葉を結びとして「気晴らしに最上階のレストランに行ってみたら?」という思わぬ場所に着地した。

11階の景色は、私が入院中に見た景色とよく似ていた。だからこそ、一番大事な部分が決定的に損なわれていて、私の興を削いだ。なんの霞なのか靄なのか、私の大事な駿河湾はその輝きを一切喪っていた。
白茶けた山々と埃っぽい町並みの境界に、駿河湾は鮮度を喪ったイカの刺身のようにぼんやりとした乳白色をして横たわっていた。
出されたシラス丼と鶏の唐揚げも、同じようにぼんやりとした味わいだった。
そして私は2時間弱の面談の中盤あたりで看護師が私を取り巻く人間関係の図をサリサリとペン先でなぞりながら言った、
「きっと、心から信頼できる人が居ないんだろうね。居なくなっちゃったんだよね」
という言葉をぼんやりと思い出した。後から遅れて胸を掠めた痛みは、ぼんやりとはしていなかった。

食事を終えた私はすぐそばの「展望回廊」なる10畳ほどの屋上テラスに出た。ガラス張りの屋根のある庭で、内側だけが吹き抜けになっていた。剥き出しの、青い青い、青いだけの晴天が見えた。
視線を反対側に移すと、幾重にも束ねられた帯のような道路を、甲虫の背のような光沢を見せつけながら無数の車が流れていた。刹那、私は瞳がぐっと熱くなるのを感じた。
3食完食、自主的に夜のスイーツまで毎日買いに行っていたリゾート気分の入院中、私の胸を唯一縛り上げたのがこの景色だった。
夜、光の弾丸のように過ぎていくヘッドライトの群れ。眼下には日常の帰宅風景が無限に広がっているのに、私はたった29歳で、高校生に間違われながら、好奇の視線を笑ってかわしている。望まない非日常に、たった一人連れてこられた孤独。
私は元気な入院患者だった。
けど、ちゃんと、辛かったんだ。

こんなとこ誰も来ないだろうと侮らずにいられない屋上テラスだったが、呆然と座っていると何組かの患者とその家族が入ってきた。私は立ち上がり、その誰ともぶつからないようそろりそろりと回廊を後にした。車イスの上の患者は言うまでもなく、その車イスを押す家族もまた、私より20は年上に違いなかった。

がんセンターの帰りは、決まって繁華街まで足を伸ばす。キラキラした文房具、働くにちょうど良い畏まりすぎない服、息子が好きそうなお菓子、そんなものを足がクタクタになるまで眺めて帰るのだ。
でも今日はそんな元気はなかった。そのまま帰路に従順に、私は自分の暮らす町へ帰った。

とにかく眠かった。三時間くらい泥のように眠りたかった。そこで私は今日出勤できなかった理由がそもそも不眠から来る怠さと目眩だったことを思い出した。やることは山積みだ。しっかり眠って、息子を寝かしつけた後、働かなければ。
そんな本能や理性に反して、私は家に帰る前にある場所に寄ろうと心を決めていた。
誰でもその辺で買えるだろうチープなチョコソースをたっぷりかけただけのチョコサンデー。シラス丼と鶏の唐揚げの記憶が無くなった私は甘味を求めていた。
同時に、彼女をやはり、求めていた。

帰路とは反対側の階段を降りる。田舎町が一生懸命栄えているフリをしている駅前の町並み。その片隅にこの喫茶店はある。
すっかり毛の剥げたグレーのスエードの椅子が、角が取れて丸く艶が出た木のテーブルの周りを囲う。
入った瞬間、咳喘息持ちの気管支をチクチク撫でる紫煙が頬を掠める。分煙はもちろん禁煙の概念すらまだ無さそうな昔ながらのこの店は、彼女との思い出の店だった。
まだハタチだった私たちは、同窓会に出るなんてダサいよねと、同窓会会場から数十メートルしか離れてないこの店に二人きりで向かい合った。誰が誰と付き合ってるとか、どんな男が自分に気があるだとか、今思えば同窓会に出た人たちの方が遥かに有意義な時を過ごしていただろうと確信できるほど下らない話を、何時間も何時間も、同窓会から帰る子達が店の窓ガラス越しに私たちを見付けて、何事かをニヤニヤ囁き会うまで、そんな後ろ指にすら得意になって語り合った。
私たちが手にしたかった、そして私たちが手にするはずだった「大人」がこの店に具現化されていたのだと思う。
それから10数年後、彼女の姉と友と私と三人で、彼女のことを称え、詰り、笑いながら泣きながら、すっかり母親になった丸い指先でトーストを分け合うことになるなんて思わなかった。そこに彼女本人がいないなんて思わなかった。そこにもここにもあそこにも、この世界中のどこを探しても彼女を見つけられなくなる日が来るなんて、思わなかった。

今朝、欠勤の連絡をしてすぐ、約7ヶ月ぶりにnoteを書き始めた。
電車で、バスで、がんセンターで、身体が一つ駒を進める度、その場その場で言葉を紡いだ。
そうして今、時が止まったような喫茶店でこれを書き上げようとしている。暑い日で、緑のパーカーは無造作に脱がれ隣の椅子に放られている。
緑を見る度に、私は彼女を求めるだろうし、彼女を求める度に、私は緑を纏うだろう。
今日のような一日を、貴女は何て言うかな。
「仕事なんて命を懸けてまでするものじゃないわ」と、お決まりの台詞をお決まりの流し目で呟くのかな。
そして「貴女は貴女自身を一番大切にしてね」と、何十回も言ってくれた言葉を、物分かりの悪い私にまた言い聞かせてくれるのかな。叱るように、願うように。

私の嵐は止まないけれど、全てが壊れそうになったらその時はすぐ、緑の服を着てエスケープするよ。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?