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闘病垢、そしてそれ以外の温かなアカウントの皆さんへ

明後日私はまた、「生徒」という人々と出会う。
2020年3月に3年間手塩にかけて導いてきた彼らと別れてから丸三年が経った。
人より少し長い、私の産育休が今日終わる。
3年前の3月、絨毛膜下血腫で切迫流産の診断を受けた。
初めての離任式に向けて「異動かぁ。ほんとお世話になったわ。離任式行くわ」「じゃあ薔薇の花束持ってきてよ」「いいよ」というヤンチャだった男子との軽口を思い出した。すっかり第2の母校のようになった、5年間勤めあげた初任校。薔薇の花束などないにしても語りたいことはたくさんあった。
それでも。
私の行動ひとつで、私は私以外の人生を、始まる前からダメにしてしまうかもしれない……。その重圧は私に呆気なく「別れを惜しまれて華々しく送り出される教師」を諦めさせた。
3月14日、私は妊娠7週で「傷病休暇」に入った。私は妊娠期間丸々、休職することになったのである。
傷病休暇が産休になり、無事にめでたく育休になり、また春が来ようとしていた。
自分より大きな血腫を抱えて頼りなくしがみついていた「細胞」は、丸々太った4ヶ月の赤ん坊になっていた。はち切れそうな頬から、某力士にちなんで「ドルジ」とアダ名を付けて夫婦で可愛がっていた。

私の右乳にしこりが見つかったのは、そんな、幸福な春を待つ2月だった。

産後太りで水枕のようにたわわになった乳房の中に、石のように固い、ザラザラが触れた。
私のスマホの検索履歴には
「乳房 しこり かたい」
「断乳後 しこり いつまで」
「しこり 胸 痛み なし」
そんな文言が連なった。
そして検索結果はいつでも、私が敢えて検索ボックスに入れるのを避けている言葉を弾き出した。「乳がん」
29歳だった。あまりに低い確率であるはずなのに、「あぁ、絶対、そうなんだな」と確信めいたものがあった。

がんセンターを紹介され、検査が進み、私は何もわからずニコニコ笑う息子を抱えて毎日慟哭した。独身時代から借りているアパートはたぶん防音において優秀ではなかったけれど、声をあげていないと気が狂いそうだった。
私の赤ちゃんは夜泣きをしないよく眠る子だった。私だけが、ずっとずっと引っ切り無しに大声をあげて泣いていた。

スマホが手放せなかった。新しい検査をする度に、どんな画像なら悪性なのか、どんな検査が入ると悪性を疑われている証拠なのか調べた。
調べれば調べるほど私は明らかに、素人目にも、癌に違いなかった。

そんなある日、あまりに調べすぎて大抵のサイトは既読になってしまった頃、私はTwitterで検索することを思い付いた。
教科書的な病院のサイトの解説でもなく、途中で更新が終わってしまっている考えたくもない悲劇を匂わせるブログでもなく、たった今、生きて癌を体験している人の言葉を私は求めた。
「29歳 乳がん」
「針生検 結果」
「20代 乳がん」
そんな言葉を検索してはもしかしたら自分の未来図かもしれない悲壮な生の声を取り憑かれたように貪り読んだ。
どうしても、若い人ほど、急に更新が途切れているような気がして私の掌はびしょびしょになった。
そんなとき、ものすごく可愛い……いや、乳児なのに既に「美しい」が似合う女の子の写真がヒットした。どうやら息子より少し大きな月齢の女の子のようだった。そしてなんと、そのお母さんは乳がんで、私と同い年だった。
彼女の投稿を夢中で遡った。まだ一歳にもならない女の子なのに見てるこちらが照れてしまいそうな美貌だった。
そして何より、そのお母さんが乳がんということを隠すことなく、悲観することなく、ただ娘さんを可愛らしいお洋服で着飾ったり、初めての育児に戸惑ったりする日常を呟いていることに驚かされた。
「日常」があることに、驚かされた。
それは私の検索にヒットしてきたどの「闘病」とも違っていた。
小さな子供を育てる大変だけど楽しい日々に、ときどき癌がチラリと顔を出すだけの毎日だった。
まだ治療が始まってもいないのに毎日泣き明かす私と、なんと違うことか。
それから私は、彼女と彼女のフォロワーさんたちを検索履歴から辿って毎日眺めるようになった。
彼女のアカウントから辿ってみると、私と同じ30前後で乳飲み子を抱えながら乳がんと向き合い、そしてちゃんと日常を見失わずにいる人は他にもいるということがわかった。妊娠中の人もいた。
もしも私が癌でも───十中八九癌だけど───この人たちと繋がれば、一人じゃない。
本当に、いま、生きて、「日常」を奪われずに闘う人がここにはたくさんいるんだ。

2021年3月2日、ついに私は「若年性右乳がん」の告知を受けた。
その日まで検索履歴からチマチマ追っていた人たちを、私はすぐに新しいアカウントでフォローした。
ちゃんとした診断が降りるまでは絶対に彼女たちに関わらないと決めていたのだ。万が一乳がんではなかったとき、こんなに励まされてきた彼女たちに向かって「やっぱり私は違いました。さようなら」なんて言えないと思ったからだ。

あれから2年が経った。
いつの間にか乳がんの人だけじゃなく、ただ応援したいと言ってくださる方とも繋がることができた。
2年間毎日、乳がんのことを考え、乳がんを抱えての育児を見つめ、乳がんである自分の未来を憂えた。その思いを、良いときも悪いときも赤裸々に綴ってきた。
乳がんのことだけではなく、日に日に大変になる育児のこと、慣れない料理のこと、大好きなおしゃれのこと、能天気な夫と擦れ違ったこと、そんなことも書いてきた。
率直で、美しくないこともたくさん綴った。
だからだろうか、時にひっくり返りそうなくらい心ない言葉も浴びた。
でもそれは本当に2年間のなかで一瞬のことで、いつでも私は支柱に囲まれた新芽のように、温かな言葉を注いでいただいた。

ここ最近、息子は急に意志疎通が取れるようになった。それに伴って、「ママ見て」「ママ来て」そんな要求も増えた。
いつしか私は、必ず返してきたお返事がまったくできなくなってきた。
それでも乳がんと育児に押し潰されそうな心を守るため、返事もできないくせに自分の言いたいことだけは垂れ流し続けている。申し訳ないと思いつつも……

そうしてとうとう今日、乳がん一色の、そしてTwitter漬けの育休が、終わった。

今日の夜、3年前に送り出したある生徒から連絡が来た。
「新入社員代表で式辞を読みます。添削してくれますか?」
まるで、異世界にいたような3年間だった。彼の中では私は、3年経っても3年前と変わらぬセンセイなのだと思う。あの春と、この春は地続きなのだ。
それでも。
こうしてまた春が来たことは決して当たり前じゃないことを私は知ってしまった。
乳がんの私が、もう一度センセイに戻るこの春。
ここまで来るのに何千人の顔の見えない人の何万回の励ましを、優しさを、厳しさをもらったことだろう。

いま、空になったアパートを見渡す気持ちでいる。
まだまだ闘病は続くし、Twitterをやめることはないけれど、この春が「区切り」だなと思う。
お世話になった場所からの旅立を感じる。
これからはきっと、毎日呟くことはないし、もしかしたらもう開くこともなくなってしまうかもしれない。
とにかく、これまでとは暮らしが変わるのはたしかだ。

だから一言、言わせてください。
月並みでつまらない言葉。でも、飾らない本当の言葉。

みなさん、私にも復職の春が来ました。
日常を取り戻す春が来ました。
ここまで来られたのは、2年間、毎日毎日支えてくれたみなさんのお陰です。
ありがとうございました。
私、行ってきます。

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