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「今の闇」、再び~或いはタモキシフェン~

私の育休は、「人生の休み」のようだった。
モラトリアムなどという陽気で優雅な休みではない。
いわば、スゴロクの1回休みだった。
何度サイを投げても、その出た目が幾つかに関わらず、私の目の前にはズラッと果てしなく、空と海とが出会うところまで───たぶんその向こうまで、「1回休み」のコマが続いていた。躍起になって投げ続けられた安いサイコロは、あんまりにも何度も激しく打ち付けられたから下流の石のように丸みを帯びてさえいる────そんな育児休暇だった。
具体的には、私の「育児休暇」は、育児をして、癌治療をして、友人を亡くした「休暇」だった。

毎朝、目が覚めるとお日さまが出ている。
雨が降っていようが、厚い雲が広がっていようが、雪が舞っていようが、私の隣にはお日さまが出ている。
人はこんなにも発光するのだろうかと驚いてしまうくらい眩しい笑顔が毎朝私を覗き込む。
2歳を過ぎたくらいから、息子はずいぶん早起きになった。
言葉が遅い彼は、私のことを「マァ!」と呼んで力いっぱい揺らす。私が目を開けたのを確認すると、満面の笑みでメガネを渡してくる。そして私の人差し指を握り、自分の人差し指はリビングを何度も指し、「早く起きよう、早く一日を始めよう!」と無言で誘う。
幸せな目覚めだと思う。恵まれた目覚めだと思う。
それなのに何故、毎朝毎朝、「もう終わりにしたい」という思いに胃の辺りがキュッとするのだろう。
いざ「終わり」が来ることが確かになったら、慌てふためいて不安と恐怖と寂しさで崩れ落ちるのが明らかなのに。なぜ、もう嫌だ、もう走れない、と泣き出したくなるのだろう。
もう何ヵ月も慢性的に苛立っている。

2021年4月、私は「理想的な癌患者」だった。
健気で、前向きで、冷静で、治療に協力的だった。
告知されて泣き崩れることもなければ、手術を嫌がることもなく、入院中もよく食べ、よく眠り、よく笑ってさえいた。
手術の朝などは切除部分を黒ペンでマーキングしている主治医の方が、手術を受ける本人である私なんかよりずっとセンチメンタルな顔で「そのうち再建したくなるかもしれないね…」などと呟いていた。私はそれを見て、再建をしたいと思うことは永久にないだろうと考える一方、ちょうど自分の親くらいの年頃の主治医にこんな顔をさせて申し訳ないとすら思った。
手術の前も、手術の後も、ドレーンが下がっているかいないかの違いしかなく、私は毎日散歩をしたり売店のパフェを食べ比べしたり下らないブログを書いたりお笑い番組を見たりして悠々自適に過ごしていた。
「すごく…冷静なんだね」
そんな私の様子を見た看護師さんの、感心したように見せかけて怪訝な気持ちが滲み出てしまっている物言いを、今でも覚えている。

2021年6月から10月にかけての私も、「善き患者」だった。
「親は子の成長を見届ける責任があります。親として生き残らなければならない」
主治医の、絶対に揺らがない凍った水面のような静かで、力強く、そしてわずかに酷な言葉に深く頷き、私はできるだけ強力で効果の高いやり方の化学療法を選んだ。
抗がん剤に怯えて嫌がったこともないし、脱毛を憂えて泣いたこともなかった。
具合の良い日など無かったけど、可能な限り感じ良く治療を受けた。何度針を刺し直されても、「血管見えにくいんですよね私…。ごめんなさい」と穏やかに微笑むことができた。
スキンヘッドになった頭に、赤や緑、青や紫のウィッグを乗せ、院内をファッションショーのような気分で闊歩した。
主治医や看護師に笑われたり褒められたりしながら全部で16回の化学療法を完走した。「やりたくない」という言葉は頭の中にすら浮かばなかった。

もちろん、告知を受けるまでは家でずいぶん泣いたし、抗がん剤中も思うように育児ができず悔し涙を流したこともある。
それでも手術から抗がん剤終了までの私は、学生時代から染み付いた「優等生」が抜けないのもあり健気で穏やかな患者だった。そして奇抜な髪色に癌への闘志を込めていた。
たぶん、ドラマやドキュメンタリーが描くような、そして健康な人たちが無意識に期待するような、「可哀想だけど生き延びるために精一杯頑張る患者」そのものだった。演じていたのではなく、私は本当に、そういう患者だった。

2021年11月17日、タモキシフェンによるホルモン療法を始めてから、少しずつそんな「理想の癌患者」像は崩れていった。
癌になってから、「生きたい」と願うことは義務だと感じていた。だからこそ、22年来の友人に長年取り憑いた希死念慮を私は初めて「肯定」した。それまで10年以上、「貴女は辛いだろうけど私は貴女と生きたい」と伝え続けてきた。でも自分自身の命が消えるかもしれないと知ったとき、そして彼女にその事実を打ち明けても尚「私の方が死にたいのに」「子供のために生きたいと思うのは子供の負担になる」と語られたとき、私はただもう、「貴女は貴女の好きにしたら良い。生きるも死ぬも選べる健康体を大事にしてね」と言い捨てるしかなかった。そして彼女は本当に「好き」にしてしまった。
彼女と刺し違えてでも私は、私自身が生きたいのだと思うことを譲れなかった。彼女を喪った痛みは生涯消えないと悟ったけれど、その痛みに最期の瞬間まで苛まれたとしても、私は彼女とあの時袂を別ったことを悔やむことはなかった。私には生きる責任がある。
が、タモキシフェンを飲み始めて一月か二月が過ぎた頃、私の心は常に沈むようになった。タモキシフェンで精神的な不調を感じる人はたくさん見てきたし、私自身20歳の時に精神疾患を抱えていたからこうなることは想定内だった。頻繁に何もかもが嫌になったけれど、「そうだよね、これがタモキシフェンだよね」と嵐が過ぎ行くのを待った。自分の中にも、彼女が抱き続けた「あの思い」が育ちつつあるのを、「親として生き残らなければならない」とひたすらに唱えて打ち消した。
そんなある日、今はもう何が原因だったのかはおろかその内容さえ忘れてしまったが、夫と衝突したことがあった。私の頭の中は急に反転したようだった。いつもなら、海鳥に絡み付く石油のような粘度の高い苛立ちが徐々に徐々に私を底へ引きずっていくのに、そのときは突然脳が、心臓が、ものすごい引力で引っくり返ったようだった。とてつもない負のエネルギーが流れ込んでくるのに、不思議と激昂はしていなかった。
こういう自分を感じたのは人生で二度目だった。────20の夏、当時暮らしてた家の2階の自室からどうしても飛び降りたくなった。窓から身を乗り出し、見慣れた家人の車とアスファルト、そしてドブ川を見つめているうちに、どうしても飛び降りなければならないのにその一歩が踏み出せない自分への怒りで千切れそうになった。私はトマトを模したボールを手に取ると、力いっぱい窓からアスファルトに打ち付けた。私の代わりだった。数分後、砂利まみれになったトマトのオモチャを手に母が現れて、「これ投げたのアンタ?」と鼻で嗤った。ねぇお母さん、今私、死のうとしたのよ、などとは言えるはずもなく、私は力なく笑って「うん、ちょっとね」とそれを受け取った。
────あの日と、良く似た嵐が来た。
私は気が付くと、顔用カミソリを握って湯船に浸かっていた。夫は息子を寝かし付けていて、風呂の換気扇が微かに唸る音だけが満ちていた。
おしまいだよ、私なんか。
こんな時に手に取るには全くふさわしくないパールブルーの柄を右手に取り、私はその刃をしっかりと左手首の青く隆起した静脈に当てた。
右手をスッと引こうとしたその時、主治医の真綿のような総白髪を思い出した。「再建したくなるかもしれないね」と言った湿った声を思い出した。そうだ、私の身体はもう、「他人様に治してもらった身体」なんだ。ふと視線を落とすと、右胸には赤黒い真一文字の手術痕があった。無意識に笑いが漏れた。こんなカミソリでちゃちな傷を付けたところで、そんなもの一瞬で霞むほどの傷が私にはもうある。こんなにクッキリとした傷を付けてまで救ってもらった命なのだ。そして次に、自らその生に終止符を打った彼女を思い出した。私がこんなふうにして死んだら、何のために彼女とあんな別れ方をしたのかわからない。何があっても生きる、生きたいと望むことを辞めない、そう誓っていたから彼女を突き放したのに。
夫のことも、息子のことも、不思議と思い出さなかった。ただただ、死んではいけない身であることだけは思い出して、私はカミソリを洗面台に戻した。
私が癌治療の中で一番深い地獄を見たのはこのときだった。
もう、健気で前向きな患者の姿はそこにはなかった。

この時も、そしてそれ以降の漫然と過ごした2022年も、私はTwitterやnoteなどのSNSにかなり支えられてきた。
タモキシフェンによる嵐に夫や息子への苛立ちが重なっても、Twitterでリアルタイムで励ましてもらったり、noteにまったく別のことをしたためて読んでもらったりするだけで、私は上手く私の膿を出すことができた。
noteは少女時代に作家になるのを夢見てた私にとって、存在しない「夢が叶った私」をほんの少し味見させてくれるようで、ギシギシと硬くなっていく気持ちを癒してくれた。noteを書いたことで、想像もしてなかった貴重な体験もできた。
そうやってタモキシフェンの嵐を、私はSNSで凌いでいけると思っていた。

事態が変わっていったのは、2022年ももう終わりに差し掛かった頃だった。
息子の足首にしこりができ、がんセンターを紹介されたことをきっかけに、3,000人程度だったTwitterのフォロワーは倍の6,000人くらいにまで急増した。
フォロワーが増えるということは、好意的にフォローしてくれてる人以外の目に触れる機会も増えるということである。
夫の愚痴を書けばワガママな妻だと言われ、育児が辛いと書けば無責任な母親だと言われ、私のTwitterは私が好きなことを好きなように書いて良い場所ではなくなっていった気がした。それでも、誹謗中傷なら無視なりブロックなりすれば良い話である。
私を消耗させたのは、良かれと思って送られるアドバイスたちだった。「公的なサービスをもっと利用してはどうですか」「お母さんを上手く頼れると良いですね。かわいいお孫ちゃんですもの」…前々から私のことを知っている人なら言わないような「暖かい言葉」に生気を吸われていった。重低音のように延々と疲れが響く心身に、公的サービスを賢く利用する気力は残されていなかった。私が望んでいるのは、ただ1時間だけの何もしないで天井を見ていられるひとときだ。息子を預けたいのとは少し、でも確実に違う欲求だった。そして私の母は世間一般の孫が可愛くてそして娘を助けてあげたくて甲斐甲斐しく協力してくれる親ではない。「ものすごく頭が痛い。救急車呼びたい。息子だけでも見ててくれないか」と朦朧としながらLINEを打っても、「忙しいから無理だよ~。薬飲めば?」というような親だ。どんなことよりも内縁の夫との生活を優先する女だ。
でもそんな数々の私の我が儘や生育歴なんかを全員にいちいち説明する余裕などあるはずもなく、私は予測変換をできるだけ繋いで形ばかりのお礼を繰り返した。

それはまさに、典型的なSNS疲れだった。
そしてさらに追い討ちをかけるように年末、ある事件が起きた。
詳しくは書けないが、予想もしてない角度からやってきたトラブルで、私はとうとう現実として、私は私の思うことを自由に表現してはいけないのだと知った。Twitterだけではない。拠り所でもあり自己実現の夢を見せてくれたnoteも、もう私が有りのままでいられる場所ではなくなった。

残ったのは、慢性的な怒りと苛立ちだった。
カミソリを握ったときのような激しさこそないが、毎日毎日、私は心の奥では自分が存在していることに意味を見出だせない。
頭では私の思いはずっと変わらない。息子のために一日でも長く生きたい。
それなのに、息子が昼寝をしないというだけで、世界が終わるような絶望を味わう。
近頃息子は私のスマホを好んでいじるようになった。息子の目を盗んでnoteをちまちま書くことはもちろん、Twitterで痛く共感した呟きに一言二言送ることすらできなくなった。
息子のために生きているのに、スマホを取られたというだけで何もかも嫌になる。母親としてそんな自分をみっともなく思い、全て終わったら良いのにと思う。全て終わったら絶対に困るくせに、そんなことを思う自分が憎くて仕方なくなる。
そんな、深くはないけれど終わらない地獄にいる。

皿洗いをしているとき、風呂に入っているとき、そんな「ひとりきり」を手にする束の間の時間、私はどう考えても手にできない「if」を並べ立てる。
もし結婚前に癌がわかっていたら、私は独りで生きる選択をしただろうか。
もし子供がいなければ、私は治療したのだろうか。
もし生きる責任がなかったら、私はあんなに彼女に怒らなくて済んだのだろうか。
もし癌にならなかったら、私はまだ彼女を支えていられたのだろうか。
もし…
そして突然霧が晴れたように、そんな「if」はどう頑張っても実現しないことを知る。
私は死ぬまで息子を育てていく責任があることを知る。
喪った彼女はもう還らないことを知る。
そうしてまた、胸の中に澱のような不愉快が溜まっていく…

先日、慢性的に機嫌が悪いとTwitterで話したところ、タモキシフェンのせいでは、とDMで指摘してくれたフォロワーさんがいた。
カミソリを洗面台に戻した瞬間に、私はタモキシフェンの副作用を御せるようになったと思った。
でもそれならば何故、こんなにかわいい息子がいながら、全てから降りたくなるのか。
何故、こんなに自由に動く身体に恵まれながら、自分の人生を呪っているのか。
舐めていたのだと気づかされた。ほんの一年と少し飲み続けたくらいで馴染んでくれるものではないらしい。

先日、抗がん剤から1年と3ヶ月でようやく生理が戻った。
自分の中の女性ホルモンに恐れ戦き、私は廊下に座り込み子供のように泣きじゃくった。初めての生理からちょうど20年だった。11歳の私は、生理が来たことに安堵したというのに。
生理への過剰な恐怖が、私の深層心理は結局「生」を望んでいるのだと語っていた。
それなのにその次の朝もやはり、私は何もかも終われば良いのにと罰当たりな感情と共に目覚めた。
この矛盾と、たぶん私はずっと付き合っていかなければならない。少なくとも、毎日あのアルミシートから純白の大きめの錠剤を取り出して飲み下している間はずっと……。
そして皮肉にも、この苦しい「ずっと」ができるだけ長く相も変わらず続いていくことこそが、私のほんとうの願いなのだろう。




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