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息子と私と今の気持ちと~告白あるいは白状~

20歳になったとき、すっかり疎遠になった小学校や中学校での同級生が妊娠したとか結婚したとかの噂を耳にすることが多くなった。
25歳になったとき、ずっと親しくしてきた周りの友人たちが結婚したいと言い出したり、子供がほしいと言い出したりし始めた。
そして28歳になったとき、私は生まれて初めて真剣に、結婚と出産を熱望した。私は婚約中で、高校3年生の担任で、そして父代わりの祖父には進行した癌が見つかった。

それまでの私はとにかく恋愛が楽しくて、夫と出会うまではいつでも「彼氏以外の男の子」に夢中だった。「彼氏以外の男の子」が彼氏になりたいと言い出して、代わりに彼氏を元カレにするまでのプロセスを楽しむことが私にとっての「恋愛」だった。
そんな恋愛以上に夢中になれたのが教師という仕事だった。自分より身体の大きいヤンキーをたくさん引き連れて廊下を歩くのが好きだった。「教科書より重たいものは持たないの」と笑えば、「しゃーねぇな」と10も年下の男の子たちが何でも持ってくれた。街中で見かける「あぅあぅ」言っている幼子よりも高校生の方が余程可愛いとずっと思っていた。
亡くした友人の言葉を思い出す。
「貴女は結婚や出産をして人並みに家庭に入るタイプじゃないわ」
「貴女は私が知る限り一番母親が似合わない女よ」
その通りだったんだと思う。彼女は私より私を知り尽くしていたから。

28歳になるひとつき前、母からのLINEで祖父が癌であることを知った。
私はクラスの生徒が志望する大学の説明会に出ていて、何とか彼らを捩じ込む方法は無いものかと思案しているときだった。
「おじいちゃん、癌だって」
スマホから顔を上げた瞬間、説明会会場のホテルの豪華な照明や華麗な絨毯が、やけに眩しく見えた。自分独りだけ光が届かないような心細さが襲った。
祖父の肛門管癌は、もう肺に転移していた。
私は何をしていたのだろう。他人の子供のためにこんなに人生を捧げて、何もかもを後回しにして、自分の祖父に曾孫も見せてやれないなんて。
恋愛は楽しかったし、仕事は誇りだった。でも私はこのとき初めて自分の生き方を「間違ったんだ」と深く悟って震えた。
帰宅後、当時内緒で半同棲していた夫に祖父の癌を告げて、私はいつまでもいつまでも泣いた。泣いている私を笑わせようと、夫はふざけて私が食べていたファミチキを半分以上噛り取ったけど、私は「なんでおじいちゃんが癌なのにファミチキまで取られなきゃならないの?!」と真剣に泣き叫んで新しいものを買いに行かせた。あの日の滑稽で、切なくて、苦しい時間の記憶は今も鮮明である。

恋愛脳で仕事人間だった私が初めて家庭を持ちたいと強く望んだ動機は、
「祖父に曾孫を見せたい」
これだけだった。
かわいい赤ちゃんを抱きたいとか、自分と夫との子を育てたいとか、そういった一般的で健全な思いは皆無だった。
だから29になる年の2月に入籍して、たった一度の試みで息子を授かったとき、「よかった。きっと間に合う。神様がおじいちゃんに曾孫を見せてあげようと授けてくださったんだ」と本気で信じた。その時はまだ、私自身の右乳房に潜んだものに気が付かなかったから。

妊娠中は毎日綱渡りをしている気分だった。私の妊娠生活は安らかなものではなく、6週目に入る前に出血し、絨毛膜下血腫で絶対安静になった。切迫流産ということで休職になり、私は初めての自分が主役になるはずの離任式にも出られなかった。しかしそれを惜しいという気持ちは全くなく、世話になってきた同僚にどれだけ不義理を働いても、どれだけ立つ鳥跡濁しまくりになったとしても、絶対にお腹の子が剥がれないようにしようという思いが強かった。トイレで血を見れば泣いて、ネットで「流産 症状」と検索しては泣いて、そうこうしているうちに酷い悪阻が始まって、妊娠した喜びを噛み締める暇もなかった。安定期が来ても時々出血し、破水しているのではと常に不安で股間に当てるためのリトマス試験紙まで購入した。いついなくなってしまうかわからない我が子に情が移るのが怖くて、どんなに胎動がハッキリしても胎児に話しかけることは決してしなかった。陣痛が来たら来たで自分のせいで胎児に何かあったらいけないと、痛みよりも過呼吸にならないかを心配した。初めから終わりまで、「本当に無事に産まれてくるのか?」と半信半疑の妊娠生活だった。
だからだろうか。息子がようやく明るい世界に飛び出したとき、私は本当に産まれてきたこと、そして本当に私の中に自分とは別の人間が入っていたことに驚いて「なにこれ?!」と分娩台で叫んでしまった。これが私が息子に人生で初めてかけた言葉である。

こうして私は、祖父に曾孫を見せることができた。初めて息子に会った祖父は、「落っことすかもしれねぇ」と震える腕で息子を抱き止め、「イケメンじゃん」と照れくさそうに笑った。80代男性の口から「イケメン」という言葉がこぼれた可笑しさを堪えながら、私もまた「そうかな」とはにかんだ。
役目は果たした。そんな達成感で満たされた。
本当の役目はこれからであること、そして、その役目をちゃんと果たせるかわからない未来が待っているとも知らずに。

友人の言葉があったから、私自身息子を可愛がれるか不安だった。
産まれた瞬間は「なにこれ?!」と言ってしまった自分が恥ずかしくて感動の涙を流すこともなかったし、息子のことは「知り合ったばかりの小さい人」として余所余所しく感じていた。
それでも3日目くらいからは一緒に入院してる5、6人の赤ん坊の中で息子が一番可愛いと思うくらいには人並みに親バカになった。
退院し、世話に慣れ、祖父や親戚に会わせ、息子は徐々に、でも確実に、私の家族の一人…しかもこれまでの人生で一度も持ったことがなかった「自分より大切な家族」になっていった。
この子には私のような思いをさせない。お父さんがいて、お母さんがいる普通の家庭で育てたい。来年か再来年には兄弟もできたら良いな。ありふれた4人家族…もしくは5人家族になりたい。
そんな青写真を描きながら、私の心は浮かれているわけではなかった。むしろ遠くの山の端に重い雨雲を認めたときのような、うすら寒い何かの気配を感じていた。こんな幸せが永く続くはずはないという思いが捨てきれなかった。でもきっとそれは自分の不幸な生まれがそう思わせているのだと無理矢理答えを出した。一方で、息子を抱いているとき、妙に昔のことばかり思い出すようになった。もう付き合いのない同級生と何をして遊んだかとか、何の未練もない元カレとどこに行ってどんな話をしたかとか。新しい命を抱いているのに、何故私の頭は人生の総決算のように古いことばかり際限なく取り出してくるのか。これではまるで走馬灯のようじゃないか。そんな縁起の悪いことが浮かんでは「何をバカな」と追い払った。
右胸にしこりを見付けたとき、私はこれらが「本能」であり「野性の勘」だったのだと悟った。
息子が生後4ヶ月のとき、私は右乳がんと診断された。

自分が癌だと知ったとき、世界は変わる。人生は区切れる。
私の中で一番大きく変わったのは、息子の笑顔が辛くなったことだった。
息子は、本当によく笑う赤ん坊だった。誰に抱かれても泣かずにニコニコ笑いかけた。親類の前はもちろん、今から注射針を刺そうとする医者にすら微笑みかけていた。そんな調子だからどこに行っても可愛がられた。愛想のない私と夫から産まれたのに、息子は太陽みたいに誰のことも笑顔にした。そんな息子の笑顔が自慢だった。
癌になったとき、一番によぎったのは、「息子の成長をいつまで見られるのか」という不安だった。その次が、「私は息子の記憶に残れないのでは」という恐れ。以来誇りですらあった息子の笑顔が、どうしようもなく胸に突き刺さるようになった。もう笑わないでほしかった。何を笑ってるの?私がどうなるかも知らないで。見れば見るほど別れがつらくなるから、もうそんな可愛い顔は見せないで。ニコニコする息子を抱きかかえながら、親である私の方が小さな子供のように慟哭する日が何日も続いた。日に日に息子を直視できなくなり、ミルクとオムツなどの生きるための最低限の関わりしか持てなくなった。

そんなとき、息子がオモチャを頭に乗せたまま眠ってしまったのを見付けた。当時私は、オモチャを渡すだけ渡して何も遊んであげられなかった。あやすとすぐ笑うので、その笑顔でまた泣けてきてしまうからである。母親が遊んでくれないから、一人で退屈を紛らわしているうちに眠ってしまったのだろう。まだたった4ヶ月なのに。しかしそれを申し訳なく思う精神状態ではなく、私は息子の寝顔にいじらしさと平和を感じた。悲しいか苦しいかしか感じない日々だったけれど、久しぶりに穏やかで暖かい気持ちになった。私はそんな白い真綿のように純真無垢な息子をカメラに収めた。そして特に何も考えずにその写真をTwitterに投稿した。Twitterには毎日何百枚もの写真が流れては消えていくから、その流れに乗って誰にも見つからずに埋もれていくだろう。でも可愛く撮れたから、私自身の記録として闘病の話と共に残しておきたい、そんな気持ちだった。
が、息子の写真は思った以上に多くの人に可愛がってもらえた。もちろん俗にいう「バズった」わけではないが、それでも私には衝撃だった。私自身が小さい子を可愛い可愛いと思うタイプではないからかもしれないが、まず赤の他人の子供を暖かく可愛がる人が思ったよりたくさんいることに驚いた。でもそれ以上にハッとさせられたのは、「癒される」というコメントだった。ここにいる人たちも、みな私と同じように、足元に常に底無しの大穴が空いているような不安を抱えているはず。「がん」というあまりに硬くて重い呪いと無理矢理向き合わされているはず。そんな人たちが、癒されたの?私はこの子の笑顔すら見たくないのに??今なら、その時の「癒される」というコメントにそこまで深い意味などないということがわかるが、当時の私にはものすごいインパクトだった。そして私は、街角で、小児科で、息子の笑顔がいくつもの別の笑顔を咲かせてきたことを思い出した。彼は私とは違う。私から産まれたけれど、私にはない力が彼にはある。そこから目を背けてその力を奪おうとしていたのは、他でもない母親である私。私は恐ろしい過ちの世界からフッと戻された気がした。このときから、私は息子の笑顔をもう一度直視できるようになった。
その日から、息子の姿を毎日投稿するようになった。息子の姿で誰かを癒したいなんて烏滸がましいことは考えていない。息子には、全く関係ない見ず知らずの他人のことも笑顔にする力があると、毎日毎日確認することで私が救われるためである。
息子が思い通りに言うことを聞いてくれない時、気を失いそうな苛立ちの中で思い出す。この子には人を笑顔にする力がある。私にはない力がある。そんな尊い力がある子を邪険に扱ってはいけない。この子の笑顔を咲かすこと、守ること、それが私の役目だと。

息子はよく笑う赤ん坊から、よく笑う子供になろうとしている。
愛嬌たっぷりな時点で私にも夫にも似ていないのだが、更に息子は検診で保健師さんから目をつけられるほどヤンチャに成長した。思春期から音楽漬けの文化系男子だった夫と、一応運動部であるが運動大嫌いなインドア女の私との子であるのが信じられないくらい、息子は活発である。
そして入院や抗がん剤で世話をしてあげられない時期がたくさんあったにも関わらず、2歳になろうとする今の息子は大変なママっ子である。相変わらず愛想がよく誰のもとにも走っていくが、家では常に私の手を握り、こっちへ来い、あれをやれ、ここにいろ、などと私を振り回す。私が座っていればよじ登って肩車をさせ、寝転んでいれば背中の上で跳び跳ねる。癌関係なく元々運動音痴で体力のない私は毎日道端の軍手のようにボロボロのクタクタになる。
息子の笑顔がつらいと思うことはもうない。あれから何百日も私は息子の笑顔を真正面から受け止めて、シャッターを押してきた。
けれど、今の私は、息子の手の平の握力がつらい。そしてそれは、カメラには写らないもの、誰ともシェアできない私だけのものだ。
その手でこの指が強く硬く握られるほど、私は思う。
「この手を振りほどいたらどうなるのだろう。“振りほどかざるを得ない日”が来たら、この子はどうなるのだろう」
息子の笑顔が怖い日々を越えて、今は息子の好意が怖いのである。
あまりにその恐怖が大きくなると、逃げなきゃと思う。機能不全家庭で育ち、20代で癌になり、友人を亡くし、息子との別れに怯え続けながら生きる……こんな酷い人生から、今すぐ降りなくてはと思う。そして想像する。この窓を開け、今私がこの世からいなくなったら、息子はどうなるのだろう、と。夫が帰るまでの数時間、何をして過ごすのだろう。オヤツがほしくて愚図るかもしれない。オムツが汚れて困るかもしれない。私を探して泣くかもしれない。私のとこに行こうと下を覗くかもしれない。そして誤ってそのまま……そんなことは許されない。生きなければ。何度そう思い直したかわからない。
息子さえ居なければ、こんな人生辞めてやれるのにと思う。でもそれは違う。息子が居てくれるから、どんなに散々な人生でも降りずに生きてこられた……これが、これだけが、真実だ。

来月に私は術後1年半検診を控えている。
私の未来は今そこで途切れている。その先にある息子の2歳の誕生日を、どんな気持ちで迎えるのか…想像しようとすると、古いパレットの上みたいにいろんな想いでぐちゃぐちゃにかき消えて見えない。見えないということすら、それこそが不吉な予兆なのではないかと怯える。
検査が近づけば近づくほど「結局、癌なんだよ」という声は大きくなる。息子に背を向ける時間も増える。

だけど。

今日、息子に「ブルー持ってきて」と言ったら、私がゲームセンターで獲った痩せっぽちの小さなヴェロキラプトルのぬいぐるみを持ってきた。
「ブルーが来た!ブルーが来たぞっ!」と一緒に追いかけっこして遊ぶときに使っているジュラシックワールドに出てくる恐竜のぬいぐるみである。
広げた私の手の平の上に、そっとブルーを横たえて、息子は私自慢の思わず目を細めてしまうほど眩しい笑顔を見せた。
この前、保健師さんから電話で言われたことを思い出す。
「何々持ってきて、とかおっしゃいますと持ってきますか?…………そうですか~。お母様、発達相談に行ってみようかなぁ、とお考えになったことはありませんか?」
ひとよりゆっくりかもしれない。でも、息子は息子の速さで、少しずつ成長している
私に背を向けられる日があっても、私の涙を浴びることがあっても、息子はその大輪の笑顔を枯らすことなく大きくなっている。私は一生かかっても、彼にこの恩を返すことはできない。この酷い人生を生きる、たったひとつの理由でいてくれること、人並みに子が成長する喜びを教えてくれたこと、こんな私に笑いかけてくれること。
いつか息子が躓いて、その笑顔が陰りそうになったとき、今度は私が彼を照らせるように私は生きる。

息子のために、手紙やビデオを遺す勇気がない。それをやってしまうと、本当に私が怖れている未来を引き寄せてしまいそうだから。
それでも、生と死が表裏一体であることも嫌というほど見てきた。それらがいつスイッチするかはわからない。明日かもしれない。いや、5分後かもしれない。いつそうなったとしても、私がいたこと、確かに私が彼の母親であったこと、本当に私と彼との驚き続きでハチャメチャな毎日があったことを、カタチに遺したい。そして誰かに知っていてほしい。いずれは、彼自身に。
これが、私が毎日泣きながら、愚痴りながら、時に途方に暮れながらも、面白おかしく息子を撮り続ける理由である。
私のホルモン療法が終わるとき、息子は6歳になる。
私はその時、現在使っている闘病アカウントを消去するつもりでいる。癌の不安は一生癒えることはないだろう。でも、ホルモン療法を無事に負えたら「いい加減にしなよ」と私は私の肩に手を置いてやれる気がするのだ。そこから先は───もし再び「闘病」に身を置くことになってしまってもそれまでは────私はよく笑う母として、「息子孝行」に励みたい。
どうかあと4年、つつがなく過ぎていきますように。
そしてどうかそれまで毎日、それからも毎日、息子が笑っていますように。


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