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ddECと私①

私は嘔吐恐怖症である。
嘔吐恐怖症という言葉を知るずっと前…小学校高学年の、たぶん冬だった。私はいわゆる「お腹の風邪」にかかって学校を休んでいた。「お腹の風邪」が胃腸炎だったのか、ただ熱による食欲不振で吐いていたのかは覚えていないが、一緒に寝ていた「たれぱんだ」に向かって垂直に吐き散らしたのは覚えている。
そんな症状も落ち着きかけた夜、私は母とコンビニに行った。母が煙草を買いに出るのに、病身の心細さもあって無理を言ってついて行ったのだと思う。そんな私をいじらしく思ったのか、母はいつもの行きつけの近場のコンビニではなく、当時出来たばかりのパフェのようなデザートが売りの某コンビニまで車を走らせた。家からものの10分。でも僅か11歳程度の、しかも具合の悪い子供にとっての10分である。車酔いをするには充分だった。
母は菓子やデザートを買ってくれると言ったが、品物を選ぶために商品棚の前で俯くだけで込み上げてくるものがあった。それでも「何かを買ってもらうというチャンス」をフイにしたくなかった私は母が持つ買い物カゴに適当な食玩を突っ込んだ。そうしてレジに並ぶ母に付き添っていたが、子供ながらに己の限界を察した。
「気持ち悪い」
震える声で訴えた。
「だから家にいなって言ったじゃん!車戻ってなよ!」
この時点でコンビニ内のトイレという選択肢が出なかった辺り母も焦っていたのだろう。私は大急ぎで…しかし非常に小さな歩幅で出口に向かった。その距離3メートルほどである。自動ドアが開く。マットに足を踏み込む。
その瞬間、私は気づいたらしゃがみこんでいた。勝手に胃が伸縮するのを感じながら、「やってしまった…」という実感が胃の腑から出ていくものと反比例するように湧いてきた。
「ちょっとRONIちゃん!」
母が後ろから駆けてくる。店員さんも駆けてくる。そこから先の記憶は、目の前を店員さんの手に握られたホースが左右する光景だけである。

そのコンビニにもう一度立ち入るまで、5年以上かかった。前を通る度、あの日の失態が思い出されて、胃の辺りがグッと押し込まれる思いだった。
そしてこの事を切っ掛けに、私は嘔吐というものに対して、並々ならぬ忌避感を抱くことになったのである。
何年経ってもそのトラウマは消えず、ハタチの時には嘔吐が上手くいかなくて過呼吸を起こし救急搬送され、妊娠中は悪阻で吐くのが怖くてほとんど食べられず血液検査で飢餓の値を出し休職になってしまった。

そんな私が、嘔吐と表裏一体のようなイメージが強い抗がん剤治療を受けることになったのは、29歳~30歳にかけての夏だった。
とはいえ、前記事にも書いたように、先に抗がん剤を経験した人たちから「吐き気止めが発達しているから吐くことはない」と聞かされていたので、そこまでの恐怖心はなかった。また、自分の癌の悪性度がかなり高いこともわかっていたので、できる治療は最大限の強度でやりきるという覚悟をしていた。子供と一緒に生き続けたいという思いは、長年の嘔吐恐怖をねじ伏せようとしていた。それでも、気に入って楽しく読んでいたはずの同病経験者の闘病記は、著者が抗がん剤治療を始め、恋人の前で予期せず吐き散らかし泣きながら床を掃除している場面から先が読めなくなってしまっていた。

2021年6月1日、私は初めての抗がん剤治療に臨んだ。一体どんな症状が現れるのかは未知なので、有休を取ってくれた夫を伴っていた。
この前日、私は抗がん剤に緊張するあまり何もてにつかなくなり、そしてそんな私とは対照的に普段と一切変わらぬ態度で過ごす夫に強い不満を覚え、大喧嘩をしていた。
これから先の治療で、私は確実に夫に迷惑をかける。そんな妻で良いのかという不安。そしてそんな不安を全く解消しようともしてくれない夫。自己嫌悪と、夫への身勝手な苛立ちと、矛盾するこの二つの感情をどちらも同じだけ強く抱えているという苦しさ。
「貴方の態度を見ていると、迷惑掛けてまで治療して生きてて良いのかわからなくなる。治療なんかしないでそのまま死んだ方がいいのかなって思う」
こんなこと言ったところで誰も幸せにならないのはわかっていた。でも、もう私は既に幸せじゃないから。落ちるとこまで落ちたって大して変わらない。そんな破壊衝動めいた思いが、私の言葉を残酷にした。
夫は絞り出すように、「RONIちゃんは自分の気持ちばかりだけど、僕だって不安なんだよ。いなくなるかもって」と答えた。その声は震えていて、私は夫の顔を見ることができなかった。見てはいけない気がした。
なぜ。結婚して1年ちょっとしか経っていない夫婦が……まだハイハイもろくにできない赤ちゃんを育てている両親が……なんでこんな、命が消える可能性とヒリヒリするくらい向き合わなければならないんだろう。止まらない涙を拭きもしないで、私は一番聞きたかったことを恐る恐る聞いた。
「じゃあ私、治療していいの?治療して生きたいと思ってて良いの?」
「生きててほしいよ」
夫の声は優しくも聞こえ、疲れきったようにも聞こえた。

そんなやり取りもあり、抗がん剤治療へは何の躊躇もなく、是非さぁ打ってくださいという気持ちで6月1日を迎えた。
化学療法センターという科で点滴をするのだが、その前には必ず血液検査と主治医の診察があり、主治医がGoを出して初めて治療を受けることができる。
初日の私はとても太っているという以外は健康だった。この頃には主治医ともだいぶ打ち解けていた。
「2週間くらいで髪が抜けます。ウィッグが今はいろいろあるみたいだから。私は髪型なんてどうだっていいし興味ないけど」
いつものバッサリした口調で言い捨てる主治医の頭には何年経っても到底剥げそうにない潤沢な純白の髪が靡いていた。
そんな他愛ない話の後で、私はどうしても心にトゲのように刺さって抜けない不安を口に出した。途中で遮られないように早口で一気に吐き出した。
「あの、病理結果が出てから結構落ち込んでて、だってすごい悪性度高いですよね、ステージも上がっちゃったし、結局抗がん剤やっても再発転移はするんじゃないかって、抗がん剤やるのは全然良いしやりたいんですけど」
国語の教員とは思えない乱文を捲し立てたが、主治医はいつもの落ち着きを崩さなかった。主治医がマスクを鼻の下まで下げる。これは彼が真剣に話をする前の癖だった。
「未来のことは誰にもわかりません。確かに無治療だと大変危険でしょうね……でも治療効果は期待できる。転移がなかったから、身体から癌が無くなってる可能性もあります」
転移がなかったことがどれだけ有り難いことだったのか、今一度突きつけられた。私は主治医の一言一言を、「あぁ…確かに」とアホみたいな相槌を打ちながら、でもアホなりに噛み締めて聴いていた。そして主治医は、今でも私の心に刻まれている一言で話を締めくくった。
「考えても答えを出せないことは、思考から切り離すんですよ。治療を終えたら何をしたいか、どう過ごしたいかを考えてください」

化学療法センターは、そこだけでまた1つの病院のようだった。綺麗な待ち合い、整備された受付、ボリュームをだいぶ落とされたテレビ。そして奥には、1つずつカーテンで区切られたリクライニングチェアやベッドが数えきれないくらい並んでいた。椅子になるのかベッドになるのかはその日の運のようだった。順番が来ると看護師に引率され、どこかのカーテンの中に通される。この日私はベッドをあてがわれた。
点滴に恐怖心はない。手術の日の導尿の時もそうだったが、ここでもお産の経験が私を図太くしていた。24時間促進剤を点滴されながら息子が降りてくるのを待っていたのだ。臨月には毎日鉄剤の注射にも通っていた。針は刺され慣れていた。
しかし、点滴のパックは見ないようにしていた。というのも、先輩サバイバーの方々が口を揃えて乳癌の治療に使われる薬剤の色がその後トラウマのトリガーとなり、その色を見るだけで吐き気を催すことになると言っているのを見てきたからだ。エピルビシンというその薬は、私がこれから行うddECという化学療法でも用いられていた。それは血液よりももっと明るい、サインペンのインクのような鮮やかで透き通った赤色だった。
初回なので薬剤師が現れ、どの点滴を何のために打つのか、それぞれにどんな副作用があるのか、どの薬を飲んでどんな副作用に対処するのか…などを説明した。隣で夫も聞いているという安心感からか、薬剤師が思ったより若く軽いノリで喋るからか、薬剤の作用か……全部だと思うが、私は睡魔に襲われほぼ寝ながら話を聞いていた。そのため、件の赤い薬を初めて見たときの記憶が私にはない。覚えているのは、赤い薬とは別のエンドキサンという薬の副作用で鼻の奥がツーンと酷く痛み、その不快感が私をまどろみから引き戻したことくらいだ。
そういうわけで、私の初めての抗がん剤は、水泳の後の古典のような、抗えない眠気をひたすら耐えるというなんともリラックスした時間となった。

帰宅から3時間程度で、副作用らしき体調不良が始まった。
耐えきれず嘔吐する……そんな吐き気ではなかった。ずっとうっすら、喉になにか込み上げるような、胸の中をドロッとしたなにかが蠢くような悪心があった。酷い乗り物酔い、もしくは軽い悪阻のようだった。
吐き気止めが発達しているというのはどうも本当のようで、デカドロンという可愛らしい小さな五角形の薬は魔法のように気分を楽にした。しかし強い薬なのか、抗がん剤を打ってから3日間だけ、しかも朝にしか飲むことができなかった。デカドロンに頼れないときは、ひたすら安定剤を飲んだ。主治医は私の吐き気は恐らく心因性である面が強いと見て、大量の安定剤を寄越していた。

さて。どうやら本当に、抗がん剤では吐かないらしい。が、吐き気ばかりが副作用ではなかった。頭痛、腹痛、倦怠感、めまい、手足のモヤモヤした痺れ…それらの不調を和らげるため、アイスまくらから頭を離せなくなった。
横たわり、これからのことを考えた。
抗がん剤を打ったその日は夫がいる。次の日の昼間なら母が来てくれる。でも夜となると別である。母は母の人生を謳歌しているため内縁の夫と暮らしており、私にばかり構っているわけにはいかなかった。母には母の、女としての生活があるのだ。となると問題は母が帰った午後から夫が帰宅する夜までの時間。……私は副作用とは別の胸騒ぎを覚えた。
アイスまくらから頭をずらしてふと横を見る。丸々としたパンのような息子が腹這いになりニコニコしている。
そう、私は私の副作用をただ耐えていれば良いという話ではないのだ。デカドロンが効いている間、安定剤が効いている間はまだ、牛歩ながら息子のために動けるだろう。でも悪心が強くなったら?悪心ならまだいい。頭痛、腹痛、倦怠感に効く薬はもらってないのだ。きっとこの先、パタパタ起きている息子を横目に、動けなくなる日が来る。幸いまだズリバイしかしない。でも息子が大量に吐き戻したら?この大きなクイーンサイズのシーツをひっぺがし、息子を着替えさせ、洗濯し……そんな一連の動作を、この重い身体を引きずってできるのだろうか?それからオムツ換え…いくら薬で副作用を抑えているとは言え、汚れたオムツの臭いは吐き気を誘った。私、オムツ換えながら吐くのかな?ミルクあげてる間は?途中で息子を降ろすなんてできない。まだこの子は自分で哺乳瓶が持てないのだから。哺乳瓶をくわえさせたが最後、240mlがキレイに空になるまで私はトイレに行けない。
考えれば考えるほど、鼓動が早くなった。
ddECはキツめの治療である。通常3週間に1度の間隔でやる治療を、ジーラスタという白血球を増やす注射を打ちながら2週間に1度にすることで癌細胞を休ませる暇を与えずに治療効果を高めることを狙う…そんなスパルタな治療である。若いからできる治療だと主治医から提案されたとき、キツくても効果が高い方がいいと私自身も望んだ。息子と一緒に生きていける可能性が1%、いや、0.1%でも上がるなら、私はどんな治療でもする。
つまり、私の癌治療はすべて息子が原動力なのである。それなのに、その当の息子を、副作用で動けない身体のせいで満足に世話できなかったら?それどころか、危険に晒してしまったら?そんなことになれば、この治療に意味はない。私は何がなんでも、この子の衣食住を保証しなければいけない。私はどんな手を使ってでも、この子だけは生かさなければいけない。
魔法の薬デカドロンは明後日にはなくなってしまう。しかもデカドロンを飲んでいてもうっすら気持ちが悪いのだ。デカドロン無き後、どうすれば?安定剤は「吐かないで済む」程度の力しかない。吐かないだけじゃダメだ。パキパキ動けなければ。そのためには吐き気を完全に近いレベルで消さなければならない……そう、もっと強い薬がいる。

翌日、私は汗ばむ手でスマホを握りしめていた。薄く開いた歯の隙間からゆっくり呼吸し、吐き気を逃がす。
もっと強い吐き気止めを……その一心で、私はがんセンターに電話をかけていた。
そんな自分の行動が何を意味するのかまでは、頭が働かなかったから……

(②へ続く)




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