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検査、そして三津シーと淡い恋

16年前の秋の日、私と彼は何の言葉も交わすことなく肩を寄せあうでもなく、ただ並んで繰り返し繰り返し浮き上がっては沈んでいくオキゴンドウの背中を眺めていた。背もたれのない白いベンチ。真ん中にもう一人座れるか座れないかの微妙な空白。そこから10月の海風が幾度も抜けた。
そうしていた時間が何時間だったのか、何十分だったのかはもう思い出せない。
ひたすら鮮明なのは、傾きかけた陽に照らされた黄金色の駿河湾。私はこのままこのキラキラと揺れる水面に身を投げてしまいたい。そうしてこの静かな幸せの記憶を人生の結末にしたい…15歳の私は本気でそう思った。
そしてその後10年以上、夫と知り合うまでずっと、私はこの日本当に駿河湾に飛び込んでしまえば良かったと思いながら暮らした。

がんセンターから沼津駅に向かうバスは程よい混み具合のまま進んだ。スカスカでもなければぎゅうぎゅうでもない。誰も、真っ赤なリーゼントの女が車窓を見つめるその瞳が表面張力を起こしているなどとは気付かない。ランダムに流れてくるJ-POP。どんな歌詞も響かなかった。むしろ白々しい慰めのようで、私の瞳はどんどん水を湛えていった。
乳がんの、術後1年半検診を受けた。
エコーを受けている途中、技師が席を外した隙に薄暗い室内に煌々と光っていた液晶を覗き込んだ。そこに打ち込まれた大量の文字、その中の数々の単語たちが、帰りのバスに乗っている私の瞳にまだ貼りついているようだった。
「所見あり」「嚢胞」「高エコー」…エトセトラ、エトセトラ。
会計待ちの数分、いくつもの言葉を検索した。特に心配することはなさそうであったけれど、それはあくまで「健康な人」の場合。私は違う。違うから、こうして検査を受けたのだ。
それだけじゃない。何故か術側の脇の下だけ、若手の技師からベテランの技師に交代して見直していた。検査の前、確かに技師は「わかりにくいところは二人で検査させてもらってもいいですか」と問いかけた。経験の浅い技師だったとは思う。名札にあった彼女の下の名前は、私の世代では見慣れない、生徒にも居たことがない変わった名前だった。でも、だけど、つまりは若い技師が一瞬では判断できない変異があったということだ。明らかに異状がないなら迷うはずがない。
私は、どうなってしまうのだろう。検査結果を聞く1週間後が永遠に来なければいいのに。
沼津駅に着いたら、最寄りの化粧品屋でファンデーションを買うつもりだった。Eleganceの新作リキッドファンデ。Eleganceはネットでは正規品が買えないから、こうして夫に息子を預け一人で出掛けている時でもないと手に入れられない。化粧品なら、私を少しだとしても癒してくれる。私が手放して貪欲に快楽だけを感じられる唯一の趣味だもの。
イヤホンからは、Mr.Childrenの「Not found 」が。これはラブソング?でも、繰り返される「あぁ 何処まで行けば」「あと どのくらいすれば」という嘆くような問いが、妙に今の気分と重なる。そう、私は、いったいいつまでこんな不安を……いったいいつになれば安寧が……
どうせ誰も見ていない。泣いてしまおうかと思った時、「Not found 」がけたたましい着信音にとって変わった。慌ててスマホの画面を開くと、叔母の愛称がデカデカとゴシック体で表示されていた。胸がざわつく。空回りそうな指先で「いまバスの中。どうしたの?」とLINEを送った。
「おじいちゃん軽い腸閉塞だって」
私の嫌な予感は的中した。祖父のことだろうとは思っていた。
祖父の肛門管癌がわかってから、もう3年になる。見つけたときから既に肺に転移していた病魔は、思ったより牛歩で、しかし確実に祖父を追い詰めている。いつしか祖父は度々人工肛門を詰まらせ腸閉塞に苦しめられるようになっていた。
「命に直接関わらないの?」
震える指で送る。
祖父は私にとって父親代わりであり、今となっては家族内で唯一のがんサバイバー仲間である。私の乳がんがわかったとき、母からその報せを受けた祖父はすぐに電話をくれた。聞き慣れた───だけどずいぶん小さくなった声で「大丈夫だから。今は良い放射線があるから。それに当たってりゃ大丈夫だから」と励ましてくれた。声は小さいのに、その口調は29年間で聞いた祖父の言葉で一番力強かった。結局私は放射線には当たらなかったし、今となってはもう放射線は祖父が言うほど万能ではないということを知ってしまったけれど……。でも今でも、このときの祖父を思うとどうしようもなく泣ける。
そんな祖父の闘病をずっと支えているのは次女である叔母だった。だから叔母からの連絡を取るときは、必ず祖父のことが頭に過る。
返信は早かった。
「流れちゃえば問題ないみたい。
それでダメなら明日また受診だって」
胸を撫で下ろし「よかった」と打つより早く叔母がもう一言送ってきた。
「お姉ちゃん当てになんないし」
叔母の「お姉ちゃん」。祖父の長女。私の、母。

母は「忙しい」が口癖である。昼も夜も、内縁の夫がやっている事業を手伝っている。私が体調を崩しても、抗がん剤を打ってない限り助けてはくれない。私は何度割れるような頭とヤンチャ盛りの息子を抱え、母の「行けないよ~忙しいんだから~」という呑気な言葉に絶望したかわからない。「じゃあ救急車呼ぶから良い」と言っても相手にされなかった。実の一人娘に対してもそうなのだから、親の為なら尚更動かない。母は何においても、内縁の夫を手伝うことを優先する。愛も衣食住も雇用もたった一人の男に頼っているのだから必死である。祖父母(祖母は認知症が進んでいる)の世話は、叔母が全て背負わされていると言っても過言ではない。
叔母が背負っているのは祖父母だけではない。叔母には子供が二人いるがどちらも精神疾患を抱えている。もう二人とも成人しているが、まだまだ叔母の助けがなければ生きていけない。叔母と叔父との関係は破綻しているが、精神が不安定な子供たちを支えるために無理矢理婚姻関係を続けている。
そんな叔母が愚痴を言える家族が私だった。

叔父の建てた家に居候していた頃から、叔母とは仲が良かった。本が何より好きな叔母は、私が幼いうちから国語に秀でたことを喜んだ。私が恋愛を覚える歳になると何時間でも恋の話に明け暮れたし、ちょっとハレンチな海外ドラマを一緒になって夢中で見続けた。母が彼氏(今の内縁の夫)の家に入り浸ってほとんど不在だった私にとっても、実の娘同然に可愛がってくれる叔母は大事な存在だった。
就職して家族とは疎遠になったが、癌になり、治療と子育てを両立するために故郷に戻った。
そして大きな治療を終えて日常が戻ってくると、叔母は時々私に愚痴の電話をかけてくるようになった。内容は母が如何に祖父母のことに関して非協力的かが8割、子供たちの将来がまるで見えないというのが2割。抗がん剤中は叔母も息子をよく見ていてくれたし、今でも私の通院の時にわざわざ仕事の休みを合わせて息子を預かってくれる。そもそも迷惑をかけているのは私の母親なのだ。私が叔母の愚痴を聴かない理由はない。
…………いつもは。

沼津の街を走る路線バスの中で、私は全てが嫌になった。
叔母がどんなに大変かは、わかる。でもそれを聞いてやるのは本当は姉妹である母の役目なんじゃないのか?そもそも母がちゃんと叔母に協力していれば叔母が愚痴を言うこともない。なんなんだろうあの女は…。娘を助けることもなければ、妹を支えることもない。親の面倒を見ることもない。ただ家族をジリジリ傷つけて消耗させながら、男との暮らしを最優先している。そんな母を持つこと、そんな母が如何に非情で役に立たないかを聞かされることに、疲れた。
そしてもっと悪いことに、検査結果が不安なあまり私は祖父に対しても「でもさ、82まで生きられて良いよね……年だから進行も遅いし」などと無意識に考えてしまっていた。私も「あの女」の子だ。同じように非情だ。いつもは祖父母や叔母、いとこたちを気にかけるような素振りを見せておきながら、ひと度自分の病気のことが不安になると自分と息子以外はたちまちどうでもよくなる。
もう捨てたい。解放されたい。複雑な家庭環境も癌ももう疲れた。

全てが嫌だと心から思った時、無性に今すぐ会いたくなったのは彼だった。
夫でも息子でもなく、遥か昔の秋の日に、肩を並べて共に水面を見つめ続けた彼。
私は叔母とのLINEを閉じて、「沼津駅から伊豆・三津シーパラダイス」と検索していた。

彼とは小6の時に出会った。男子にしてはかなり背が低く、漆黒の髪の襟足を肩まで伸ばし、大きなアーモンド型の瞳を持つ端正な顔立ちのせいもあって一見すると女の子のようであった。
その可愛らしさは男子からのからかいの種になり、彼は同じクラスの幼馴染みの女の子を頼って常にその子と一緒に居た。その二人組に入れてもらう形になったのが私だった。
私たち3人は中学に上がっても仲が良いままで、クラスが離れても交換ノートを回していた。ノートには日記というよりは、それぞれの創作したキャラクターや小説を書いて読み合っていた。彼は意地の悪い男で、私の酷い天パやそのせいで剥き出しにするしかない広い額を何かにつけてからかい続けたけど、私が書くものだけは「すごいね」と言葉少なに認めてくれた。普段は意地悪なのに私が一番大事にしているものは認めてくれる……そんなギャップにドギマギすることが多くなってきた頃、私はもう一人の女の子──彼の幼馴染みから、「実はアイツが好きなんだよね私」と打ち明けられた。私たちは思春期だった。正真正銘の、純度100%の。
友達と同じ人を好きになった。しかも先に言われてしまったからには自分の気持ちはもう言えない。中学生らしい可愛い三角関係が始まった。
交換ノートは受け渡しが恥ずかしいという理由で中2の始めくらいにやめてしまったけれど、私と彼とは覚えたてのケータイでメールのやり取りを続けた。もう一人の友人はお家が厳しく高校までケータイは持てない決まりだったから、私は彼女を出し抜く形で彼との仲を深めていった。
クリスマスには家に呼び、バレンタインデーにはチョコを渡し、ホワイトデーにはお返しを貰い…それらすべてを、もう一人の友人には内緒にした。
友人は友人で彼との友達関係を続け、私は彼女が彼の家に上がった話や彼からCDをプレゼントされた話などを恋路を応援する一人として「よかったじゃーん!」などと言いつつ内心は身が焼かれる思いで聞いていた。
3人組だった私たちは、思春期の荒波で解体され一対一が3つという関係になった。ただ、「私対彼」という関係だけは、お互いにひた隠しにして彼女には悟られぬよう努めた。そうしようねとはどちらも言っていない。自然と彼女だけには言えないと互いに感じていた。

そんな私と彼が、「高校受験前に最後の思い出作りをしよう」と二人きりで出掛ける場所に選んだのが、伊豆・三津シーパラダイスだった。
中学3年の、10月。あの頃の10月は、今よりもっと風が冷たかった。
天パの髪をオールバックにして頭のてっぺんでひっつめているくせに、真っ黒なスエードのスカートに、母から借りたこれまた真っ黒なベロアのカーディガン、中には細かいフリルが何重にもなった白いブラウスという背伸びしたカッコをしていった。
彼と私は家族旅行や遠足で何回も見たはずの馴染みの水族館を丁寧に丁寧に見て回った。
たくさんの真っ赤な魚が全部こちらを見ていた。「うわ、めっちゃ見てくる」と言って笑った彼の声変わりしかけの少し枯れた声を、私は今でも思い出せる。
そんなふうにワイワイ過ごしていたのに、野外の大きな生け簀の前で並んでベンチに腰かけた時、私たちはどちらも何も言わなくなってしまった。
目の前の黒々とした水を湛えた生け簀では、柳の葉のような美しい体をしたオキゴンドウが悠々と周回していた。水面よりさらに深い黒のその背中が、何度も何度も私たちの目の前でザプンと水を割るのを、ひたすら黙って見つめた。陽は次第に傾き、真っ黒だった水面が黄金色に輝き出した。
帰らないと、と思いつつ、どちらも「帰ろうか」とは口に出せなかった。帰ったら終わることを知っていたから。この寒いけれど心地よい時間も、受験戦争前の自由も、私たちの無邪気で残酷な関係も。
私たちは恋人同士ではなかったから、受験勉強が始まってしまえばその先には何もないことがわかっていた。だからといってもう一人の友人を思うと、恋人同士にもなれなかった。
先がないなら、いま、この輝く水面に飛び込んで、終わりにしてしまいたい。
そんな破滅的なことを考えていたあのときの私は、どうしようもなく幸福だった。

当たり前だが、あれから16年後の今日伊豆・三津シーパラダイスに行ったところで彼に会えるわけがない。まさに「こんなとこに居るはずもないのに」という話だ。彼はもう地元にすら居ない。遠く離れた街で大手製薬会社の研究員をしている(ちなみに彼とは成人後再び二人きりで会うようになったがそれはまた別のお話)。それでも会える気がした。たぶん疲れすぎてちょっとイカれてしまっていて、あの場所に行けばあの日の彼のカゲロウに会えると、半ば本気で信じていた。
沼津駅からバスに揺られて約40分。トンネルに入る直前の、水族館の正面の道路の反対車線にバスは停まった。
あの日もバスはここに停まって、慣れない路線バスの両替に手間取った私は運転手さんにピシャリと叱られたんだっけ。PASMOをタッチしながらあの時のバツの悪さを思い出した。
時刻は13時ちょうど。うっすらと白い雲が筋になった秋晴れの空を背負うように、伊豆・三津シーパラダイスは建っていた。ロゴマークのオレンジのイルカが、私のノスタルジーを掻き乱した。
真っ赤なリーゼントの女は一人、心だけは洒落込んだ少女に戻ってウキウキと入館した。

チケットを見せゲートを通ると長い長いスロープがある。水族館が大好きな私は、16年前のあの日も含め何度このスロープをはやる気持ちを抑えながら下ったことかわからない。スロープを踏み込む振動と、これから出会う海の生き物への期待に踊る胸がシンクロする。たかたかたかたか下っていく───のだが。
「どうぞこちらへ!記念のお写真をお取りします!」
無理にテンション高く張り上げた老女の声に私の高揚は吹き飛んだ。この通路の記念撮影は昔からある。でも前は断れたのではなかったか…?ていうか一人で来てる人も撮るの??促されるままカメラの前の白線に爪先を揃えた。赤のリーゼントでニコリともしないとガラが悪すぎると思い私はできるだけ目を細めた。
「マスクはいいですか?!そのままで!」
「はい、大丈夫です!」
バシャリとシャッターが降りる音がした。マスクのままで良いに決まってる。買わないんだからこんな写真…
記念撮影で消耗した私は妙な動悸を抱えながら展示室に入った。入ってすぐは昔からセイウチの展示だ。でも目の前で広い水槽を華麗にくるくると往復しているこのセイウチは、昔見たセイウチより随分小さい気がした。昔は岩窟を模した壁にビッチリ寄り添ってもっと窮屈そうにしていた気がする。もちろん生き物なのだからその命には限りがある。別個体になってしまっているのかもしれない。昔ここでセイウチを見ていたときの、もしかしたらその巨体でガラスを割ってこちらに乗り出してくるかも、という緊迫感は得られなかった。
セイウチの水槽の向かいはウミガメの水槽だった。ウミガメの水槽の背は低く蓋もないため上から覗くことができる。小さい頃から亀が好きだった私はいつまでもこの水槽を上から横から眺め回したものだった。が、昔は甲羅が重なりあうくらいギチギチに詰められていたウミガメも、もう今は一頭だけになっていた。一頭のウミガメは客の視線を避けるように限界まで奥に位置をとりジッと沈んでいた。
なんだか寂しくなったなと思いつつ辺りを見回すと、平日にしては人が多いことに気がついた。カップル、家族連れもいないではないが、10代後半か20代前半辺りの男の子の集団が目立った。彼らは互いに何かを囁き合い笑い合いながら展示を見ていた。そういう5、6人連れが何組か狭い展示内をウロウロしていた。私は普通の女性らしい出で立ちで来なかったことを悔いた。赤いリーゼントに黒のオーバーサイズのロゴTシャツ。悪目立ちしているせいで彼らに近づくのを遠慮してしまい、私は彼らのどの集団とも距離を置くため挙動不審にフラフラ歩いた。大水槽を取り壊し自然の池なのか川なのか長閑な風景を演出した展示や小ぶりのタカアシガニを申し訳程度に数匹沈めたタッチングプールは、一生懸命になって人波を掻き分けてまで見るほどの興味はそそらなかった。私は人があまり寄り付いていない水槽だけをチラチラ覗き込み足早に展示室を出た。

外に出て、どうしてこんなに男の子の集団が多いのか理解した。振り返ると、展示室のところどころ赤茶色の錆によるシミが流れた古ぼけた白い壁に、そのレトロな風合いには似つかわしくないキラキラした可愛らしい女の子たちの絵がデカデカと貼られていた。町興しに大いに貢献してくれたという、あるアニメの絵だった。そう、ここは今や聖地なのである。何組かいる男子の集団は、その巡礼者だったのだ。
変わり果てた展示内容と客層にかすかに胸の奥がひりついたが、野外の大きな生け簀は昔と変わらず深緑色の海原を抱いていた。駿河湾をコンクリートで区切っただけの粗野な生け簀は、海の香りも風もそのまま運んでくる。どんなに寂れても、私が時々ここに帰ってきたくなる理由はここにある。
メインの生け簀ではイルカショーが行われていた。生け簀の向こう側に階段状に作られた観客席はやはり平日らしく閑散としていた。それでも天高く跳ね上がる二頭のバンドウイルカが鋭く乱反射させた太陽光に私は目を細めた。10月とは思えない暑さ。あの日とは、全然違う気候。
気候だけでなく、生け簀のメンバーもすっかり様変わりしていた。今はイルカはバンドウイルカとカマイルカの二種だけのようだ。私が子供の頃はスナメリもいたし、アスカとヤマトというシャチのツガイもいた。永い年月の中で、一頭また一頭とこの駿河湾に見守られその役目を終えていったのだろう。そしてそれは、あの日彼と永遠のような時間見つめ続けたオキゴンドウも同じだったようだ。彼と座ったベンチは撤去され、その場所には小さい子が遊ぶための砂浜を模したプールが作られていた。見ると小さい子が触ったり捕まえたりしても安全な黒い小魚が放たれていた。

コンクリート打ちっぱなしの生け簀を横切ると細い坂道に出る。竜宮城でも再現しようとしたのか、その一部は非常に短い朱塗りの橋になっているが、その朱もすっかり色褪せていた。緩やかに弧を描く坂道に巻かれるようにして、海岸をそのまま利用したアシカやアザラシの飼育場がある。海の香、という美しい響きは似つかわしくない鼻を突く生臭い獣臭が漂う。暑さと臭いとでクラっとしたが、私はその細い坂をひたすら登っていった。進む程に急になり、頭上に整えられていない木々が覆い被さってくる。もはや家族連れもカップルもおらずただ私一人が鼻息荒く進んでいた。この先に何があるか知っているから、歩みを止められなかった。子供の頃は、メイン展示を見て、イルカショーを見て、そのあと、「遠いけど行く?」と気乗りしない母の顔を見ないふりして駆け上がるように登ったものだ。その先には────
「ペンギン・フラミンゴ→」
坂はあと少しで登りきれるというところで、可愛らしいペンギンとフラミンゴのイラストが描かれた看板とロープに遮られていた。
まぁ、そうだよな。わかっていた。この先にもうなにもないことは知っていた。何故ならその先あるはずだったものは、「ラッコ館」という別館だったのだから。今やラッコは日本全国でも3頭しか飼育されていない。こんなとこに居るはずがないのだ。私は看板に従って道を折れ、色褪せたフラミンゴとやたら大量に檻に押し込められたペンギンたちを眺めた。

こんなとこに居るはずもないのはラッコだけじゃない。いろいろなものが、もうこの古びた水族館からは姿を消していた。カマイルカは、それぞれ柑橘類の名前を付けられたものが5頭いたのではなかったか。さっき聞こえてきたショーのアナウンスで呼ばれていたのは全く違う名前だった。アスカもいない。ヤマトもいない。スナメリもいない。あの日のオキゴンドウも、そしてあの日の彼も。
私はいったい、何をしに来たんだろう?

イルカたちの生け簀に戻って、バスまでの時間を潰すことにした。生け簀は頑丈そうな網によって区切られ、2、3頭ずつのバンドウイルカが暇を持て余していた。ショーステージのバックヤードは檻もなくカマイルカやバンドウイルカをかなりの至近距離で見ることができ、運が良ければイルカたちがこちらへボールを蹴って寄越してくれることもあるが、そういう場所にはやはりカップルや家族連れが集まっていた。私はしばらくほんの2メートル先を泳ぐイルカたちに熱視線を送っていたが、幼い子供たちやベビーカーを引いた夫婦が来たので場所を譲った。さすがにこんなガラの悪い出で立ちで家族連れの近くに居るのは気が引ける。
私はあの日オキゴンドウが往復していた生け簀を手摺から乗り出すように覗き込んだ。今はバンドウイルカが住んでいるらしい。イルカは何度かこちらへやって来ては、左半身だけを水面から浮き上がらせ私に流し目をくれた。その度に私は年甲斐もなく小さく手を振った。そんなやり取りを何度か続けていると、浮かび上がったイルカを見て私の背後で幼い女の子が「イルカだイルカだイルカだ!ねぇお父さん見て!」と叫んだ。振り返ると、息子とたいして背丈の変わらない子だった。息子はまだ喋る気配がない。いつか、息子がああして饒舌に喋るとき…私はそこに居るのだろうか。「お母さん!」と呼ばれる日が来るのだろうか…。
……とりあえず、土産だ。息子に土産を買おう。
私は「出口・売店」と書かれた標識に従った。

到着時に撮られた赤いリーゼントの女が愛想笑いしながら棒立ちになっている写真を「大丈夫です~」とこれまた愛想笑いで拒絶しながら売店に向かった。
売店は昔と変わらず広く品揃え豊富で、過去の盛況ぶりの名残を表しているようで逆に切なかった。売店の横にあったはずのレストランは子供向けのボールプールとイワシだかアジだかに特化した展示になっていた。
売店を見渡しながら、あの日彼とお揃いのストラップが欲しかったけれど恥ずかしくて言い出せず結局何も買わずに帰ったことをふと思い出した。買えば良かったのにね。15歳の青い私が突然愛おしくなった。

もともと水族館グッズが好きで、どこの水族館に行っても爆買いしてしまう。とくに土産物屋がモールになっている八景島シーパラダイス、オリジナルグッズのセンスが良くしかも滅多に行けない美ら海水族館には幾ら注ぎ込んだかわからない。
今の私はボロボロ。検査を受け、家族の愚痴を聞き、いっぱいいっぱいになったからここに来た。好きなだけ買っても許されるだろう。
そうは思うものの、心は踊らなかった。息子には何が良いだろう。夫は何なら喜ぶのだろう。そんなことばかり考えて店内をぐるぐる回った。何か取って置きのものを買わないと、二人が私のことを忘れてしまう気がした。そんな焦りの中で、私は次々に品物をカゴに入れた。そして自分用にも、気に入ったぬいぐるみは全部カゴに入れた。息子が産まれてから、水族館や動物園で自分用のぬいぐるみは買わないようにしていたけど、もうこんな風に心の赴くままに水族館で買い物できるのは最後かもと思った。
会計を済ますと、もともと欲しがっていたデパコスのリキッドファンデが2本買える金額だった。

トイレを済ませ、バスを待つ。
バス停の横には料亭なのか旅館なのか、店員がしっかり外まで客を見送る日本家屋の格式高そうな店が建っていた。その建物のさらに向こうの白い手摺が目に入ったとき、電流のように鮮明な記憶が頭を駆け巡った。
すなはま。
たぶん、あの向こうには砂浜がある。
疲れ切っているし、荷物は重いし、何よりバスが来てしまう。だから確かめようがないけれど、たぶん、あの向こうには砂浜がある。
私と、祖父と、母と3人で、三津シーパラダイスの帰りに寄った砂浜。私はまだほんの子供で、どこまでも広がる駿河湾になど目もくれず、下ばかり向いて貝殻を拾った。祖父はただ遠くを見ていた。「やだこれ、RONIちゃん、フグさんかな?かわいそう」そう言って母が、打ち上げられて干からびたカサカサの魚の骨を指差したのだ。帰り道、祖父のポマードの香りが染み付いた車内には、留守番をしている祖母が好きだったテレサ・テンが流れていた。祖父は車を飛ばすから、すぐにカチンカチンと間の抜けたブザーが鳴る。「やめてよお父さん」と詰る母の声を聞きながら、私は祖父に買ってもらった貝殻セットをずっと飽きずに見つめていた。帰ったら、拾った貝も混ぜよう、そしたらもっと貝が増えるから……

私は伊豆・三津シーパラダイスを振り返った。オレンジ色のイルカを照らす光はすっかり黄色くなっていた。
もう祖父と、ここに来ることは、二度と、ない。
それは悲観ではなく現実だ。
この場所に何度も一緒に足を運んだ私と祖父は、今は2人とも少し先の未来さえわからない身体になってしまった。あんなに楽しく愛しい時間を過ごしたのに。それはこの場所、同じ場所なのに。今私はたった一人でここにいて、大好きな水族館に来たというのに、真っ暗なトンネルに置き去りにされたような気分でいる。
そうか、時間は戻らないんだ。
私はいったい、何をしに来たんだろう?
思春期の、ほろ苦くも眩しい青春の面影を追ってきたのではなかったか。何年も何年も人知れず恋い焦がれた男の子の残像に会いに来たのではなかったか。
それなのに、今ひたすら思い出すのは祖父だった。
若き日の、ポマードで髪をガチガチに撫で付けた伊達男の祖父。土木作業でゴワゴワに日に焼けた堅い手のひらで、私の手をしっかり引いた祖父。
バスで叔母から連絡をもらったとき、私は何もかも嫌になったから三津シーパラダイスに行くことにした。若い頃の一番美しい思い出を求めて。
でも本当に求めていたのは、祖父の温もりだったのでは……?この場所は、甘酸っぱい初デートの場所。だけど、何度も何度も、祖父と二人訪れた場所。祖父が私を喜ばせようと、いくつも土産を買い与えた場所。祖父が無邪気に貝を拾う私と、遥か水平線とを代わる代わる見つめた場所。
一心に、泣き出したくなった。帰り道がわからなくなった子供のように。
子供に戻りたい。15歳じゃない。もっともっともっともっともっと…………ウミガメの前を動かなかった頃の私に戻りたい。私も祖父も、みんなみんな健康で元気だった頃に戻りたいよ……。

結局、思い切って水族館に行っても、私が検査結果待ちの31歳の癌患者であることは変わらなかった。
お土産に渡したイルカ型のトレーラーを息子は大層気に入り、いつまでも静かに走らせて遊んでいた。よかったことは、それだけだった。
検査結果は、1週間後に出る。

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