髭のおじさんが飛んだり跳ねたり

時が流れるにつれて、僕たちのゲームに対する楽しみ方は変わってしまった。昔は、ゲームの世界に足を踏み入れること自体が、ひとつの冒険だった。

最初に手に入れたDSや、心躍る「スーパーマリオ」のカセット、それらはただの道具ではなく、僕たちの青春そのものだった。
しかし、歳月が経つにつれて、あのころの純粋な情熱は、次第に複雑な感情に変わっていった。

大人になるということは、ただ年齢が増すことではない。
心の中で何かが変わるのだ。

それは、何も変わらないはずのゲームの楽しみ方さえ、変えてしまう。
小さな画面に映るピクセルたちが、いつの間にか単なるノスタルジアの象徴になってしまう。

ゲームをプレイする時、どこかで「元を取らなければ」といった思考が忍び寄るようになった。
まるで高いカセットやゲーム機を購入した分、少しでもその価値を引き出さなければと焦る自分がいるように。

子供の頃の僕は、ただひたすらにゲームを楽しんでいた。

そこには何の計算も、現実の重圧も存在しなかった。
純粋な好奇心と冒険心が支配する世界だった。
ゲームが進むにつれて、キャラクターが成長し、僕もまた成長していった。

しかし、成長するにつれて、楽しみ方が次第に変わってしまった。

大人になると、物事をより複雑に考えるようになる。

お金のこと、時間のこと、社会の規範。
すべてがゲームの中に入り込み、楽しみの中に潜む計算が現れるのだ。

スーパーマリオをプレイする際、かつてのようにただ楽しむのではなく、ゲームの難易度やクリアするまでの時間、そしてその達成感を評価するようになった。
楽しみ方がシンプルでなくなることで、ゲームの魅力も変わっていく。

その変化は、ゲームだけに限らない。

大人になるということは、自信を取り巻く環境全般に対する感覚が変わることを意味する。ゲームのスクリーンを見つめながら、僕はかつてのような単純な喜びを取り戻すことはできないと感じる。

ゲームはもはや単なる楽しみではなく、どこかで戦略的な思考が絡み合う存在になってしまった。

振り返れば、あの頃の無邪気な楽しみ方が懐かしく感じる。
子供時代のゲームの中にあった、無条件の喜びと興奮は、どこか遠くに消えてしまった。

しかし、その変化を受け入れることで、新たな楽しみ方が生まれてくるのも事実だ。
大人になったからこそ味わえる、ゲームをプレイする中での微妙な感情や、ちょっとした達成感。
それらもまた、新しい形の楽しみ方として、受け入れていくしかないのかもしれない。

ゲームという世界は、僕たちの成長とともに進化していく。
かつての単純な楽しみ方は、もう戻らないかもしれない。
でも、その中にある新しい喜びを見つけることで、また別の形でゲームを楽しむことができるだろう。

それが、大人になるということなのだろう。

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