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生きること、学ぶこと


人間の歴史=男性の歴史ということへの無自覚性について



ショッキングである。無自覚であることへの衝撃である、女性の社会的不平等という視点でのみ、フェミニズムを考えてきたことへの無自覚性は、一体なぜなのだろう。

狩猟時代も、男は狩をして、女は料理する。主に生物学的、身体的理由からと考える。生殖機能から女は育児をすると考える。身体的にはそうした区分がされない賃金労働の現代の仕事になっても、男性は外で働き、女性は家庭を守る。子供がいれば、子育て、料理などの家庭のケアを行いつつ働くという区分に人間の男女の存在と生き方の根源的な問題を意識しない。

岡野八代の「ケアの倫理」を読む。深いショックを受ける。政治、社会、経済、教育、哲学全てが、人類の歴史=男の歴史として行われてきた。こうした人間の活動に、女性が無償で提供してきたあらゆるケアの労働を考えることを排除してきた。その存在を当たり前のものとして、素晴らしいものとして考えることで、神からの贈り物として受け止めることで、実は無視してきたのが人類の歴史である、という指摘である。

ケアとは、気遣い、配慮、世話をすることで、社会に必ず存在する。人間の社会には不可欠なものである。 ケアする、されるの関係は非対称である。この人間の全ての必要な仕事が、女性たちの労働として安価であるいは無償でやられてきた。人は他者との関係の中で、身体的、精神的なケアを受けつつ生きているにも関わらず。

例えば、母親は、子供のケア、家族のケア、自分のケア、を朝から晩までやっている。まして老人、病気の家族がいれば、もっと大変である。私たちは常に何かに気を配っている。健康な時はひとは、自分がケアの対象であることに気が付かない。例外なく全ての人はケアを必要としている。

ケアをケアワーク、つまり労働とみなしてよいのか? という問いから始める。無償のサービス、愛のサービスは価値があるのか? 公私二元論がある。

本論の中心に据えたのは、「もうひとつの声で」(キャロル・ギリガン1982年)の著作である。」心理学の理論とケアの倫理、家父長制をめぐるアメリカのフェミニズム理論の中で、位置付ける。中絶のディレンマ、1960年代の民主主義の形骸化、中絶問題、女性が自分の望むことをやることが自己中心的と批判される社会の問題。70年代の家父長制、男中心主義を変えるフェミニズム運動。

さらには、ルービン「女たちによる交通」を取り上げる。
人間の歴史=男の歴史という例として。
マルクスの労働には、家事労働が考慮されていない。また、レヴィ=ストロースの親族システムにより、親族の地位は生物学的人ではなく、社会学的に決定されている。

アカデミズムも再生産、私的領域、家父長制、身体という分野を無視してきた。The areas that academia has ignored are reproduction, the private sphere, patriarchy, and the body.
アカデミズムが注目してした分野とは、生産、公的領域、資本制、精神である。マルクスとフロイトの批判が女性抑圧の根源を探ることになる。再生産の見過ごし。エディプス構造への批判である。

ギリガンの体験で、男性と女性の心の奥を窺える質疑がある。ベトナム戦争への徴兵に抵抗すべきかどうか?男性は答えられない。友人や家族との関係など自分の内面の考えが未熟であり、間違えるならば無口になる。
実は、女性の中絶問題も同じと考える。もうひとつの異なる声が内面にある。胎児の権利、女性の権利かの問題ではないこと。人が本当に思っていることを言えば 人間関係が崩れると考える女性の心の奥である。

実際人は話す時、他者の思いも考えたり、あるいは自己の思いを強めたり、一貫してはいない。

これまで語られなさかったことは、他者との繋がりの中で、その葛藤を自分の中でどのように解決してきたか、解決されなかったかについてそれが未来はどう繋がるのかの、そのような心理的なものは、語られなかった。

男性のみの研究では、成功願望と失敗恐怖の二つしかないが、.女性には、さらに成功不安がある。男性に競り勝つかこと。男性は自分のことを考えると同時に、他者がどう影響を受けるかをなぜ考えないのか?安易に自分の成功だけを考えるのはなぜか?

倫理は二つある。公正さへの倫理と他者への責任に関するものである。
二つの道徳概念がある。正義の倫理とケアの倫理である。道徳とは何か? 他者を傷つけないことと答えるが、それは自己犠牲を伴う。
なぜ自己犠牲なのか? 女性固有のきずつけられやすさがある。
社会的な無力さに起因する。社会的権利を男性に奪われていた女性は
男性を喜ばすことに生きがいがあった。生殖問題をめぐる男女の関係、アイデンティティをも規制してきた。

女性たちの道徳性の変遷を描いたジーン•ベイカー•ミラー
「女性たちの新たな心理学に向けて」がある。
男性支配=女性隷属論、60年代のアメリカの社会的地位と権力の作用の分析を行う。差異=不平等の固定化、家族になることで、幸福でもあるが、
従属集団は生きることに精一杯。自分の利益のための行動は避けなければならない。女性の従属者の役割とは?支配者たちがやりたくないことをやってきた。

友人の女性と、この問題を話し合う。同じようにショッキングだと言う。
家事労働や子供の養育が犠牲であるという認識がなかった。
しかし、こうした社会構造とその中での地位、心理のあり方を考えるのに、
「人間的アプローチ」がある。
女性は、人との結びつき、愛着、相互依存関係は、自身が成長していくのと同じであると考える。

民主主義論とケアについては、「根腐れ.起こしている日本社会」(本田由紀)をあげる。政府の産業政策の下、仕事、家族、教育の三つの異なる分野が市場労働の中心となる正規労働を生み出すため、強固につながり人や資源を回していることに問題がある。それぞれが根腐れになっている。

仕事は、父が賃金を渡し、母が家庭ケアをする。子供により、教育機関が新しい労働力を出す。三つの関係を維持することが目的化している。

なぜ働くのか?なぜ家庭をきずくのか?なぜ学ぶのか?の本質問題が見失われている。「日本」ってどんな国?政治そのものの見直し、病巣を治す必要がる。

生きるとは何か?その視点から政治を見直すこと。下から、個人の行動から見直す。日々の現実から思うことを考えるというスタンスが必要である。
生きるためのニーズとは何か?男女が共にケアするための社会を創造する。

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