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生きること、学ぶこと


なぜこんなにも日本社会は息苦しいのか?



〜「能力」により順位づけされ、「資質と態度」によって画一化される教育〜




憲法第二十六条を読む。


第二十六条
すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
②すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、これを無償とする。


国民はひとしく教育を受ける権利があるが、個人の能力によって受けることができる教育には差があることを前提とした表現となっている。もちろん、教育基本法は、能力以外の教育機会の平等と国民の学習権を保障し、能力が足りない場合は、もっと教育機会を与えるというのが一般的解釈である。

なぜこの一文が記載されたのだろうか?

GHQ案には含まれていない。突然、松本国務大臣と佐藤法制局部長の案に記述された。佐藤がワイマール憲法を参照にして自由気ままでは困ると思い書いたのではないか?
the admission of a child to a particular school shall be governed by his ability and aptitude.

能力に応じて格差が生じることは肯定している。むしろ、能力があっても、学問ができないということは避けなければならないことを重視した。
旧教育基本法、第三条にも、「能力に応ずる教育を受ける機会を、与えられなければならない。能力があるにもかかわらず、経済的理由で修学困難なものには支援が与えなければならない。」とある。


さて、本田由紀の主張はもっと根深い日本の教育の実態にある。「教育は何を評価してきたのか」を読む。
日本の教育は世界の方向とは全く逆に向かっている。外国人は誰も日本で教育を受けようとは考えなくなる。
最初の問いである。

どんな人が望ましいですか?

日本の教育では、「能力」「資質」「態度」という3つの言葉で、望ましい人の基準を考えるような体系を作ってきた。それに私たちはがんじがらめになってきている。他にも重要な「主体性」という言葉もある。「想像力」「他者性」もある。世界の教育ではより重視されている言葉である。
にもかかわらず、この3つのことが社会を支配していることが日本の異常である。

どのようにして、「能力」「資質」「態度」という言葉が、教育の中で使われて、私たちを束縛してきたのか?

メリトクラシーを能力主義と訳してきたが、欧米でいうメリトクラシーとは意味が異なる。日本の能力主義は、生得・後天の両方の個人に内在するものを意味した。
meritの意味は、価値、長所、取りえ、美点、手柄、勲功、功績、功労、実態、本案などで能力という訳語はない。
日本は属性主義で、実績主義ではない。能力のある人が報われると考える。実績や業績よりも見えざる能力の重視なのである。
能力があるから選ばれると考える。( 能力の社会的構成)
このことが、つまり日本型の能力主義が、日本社会を垂直的な序列化に導いてきた。(社会の能力主義的構成)

日本の特徴は、順番をつける、比較する、みな違う能力があることを認めない社会、序列主義社会である。集団主義であるためでもある。

「資質と態度」については、「こころがけ」「心のあり方」が態度の概念になり、1941年に国民学校の評価項目に入る。教え込まれるものとなる。教え込まれるものを「教化」という。「教化」されると画一化が生まれる。安倍の2007年の新し教育基本法への組み替えでは、「資質と態度」が強力に押し出されて、2017年の学習指導要領には義務化される。
義務化は、具体的なプログラムとして教科になる。「特別な教科 道徳」「公共(高校)」が新設される。

学校における教育内容、方法のすべてを、国家への貢献という「資質と態度」の満遍ない育成に向けて吸い上げる構造が出来上がる。
「能力(学力、人間力)」「資質と態度」は、こうして多くの排除を生み出してきた。

何が問題か?

現在の社会的課題は、
1)少子高齢化
2)経済の低迷  
3)格差と貧困
4)女子の社会進出不振
5)マイノリティへの差別
などがある。

この課題に対応するためには、異質な他者を尊重することが一番重要である。水平的多様性への転換である。
「能力」による序列化や「資質と態度」による画一化はまさに逆行する。
学力にしても、人間力にしても、相対的な位置付けをすることで格差意識は増長する。
この日本社会をつくった法律、政策、制度、その中で定着してきたのが、「能力」「資質と態度」いう 「望ましさ」を言い表す言葉である。人間の「望ましさ」に関する日本の実践は、社会と個人の柔軟な関係を阻害してきた。

どうすれば良いか?

本田の提唱は高校での多様な学びや大学入学への門戸開放などである。
社会の受け入れ方の問題もある。

しかし、こうした改革を実現させるためには、戦後も脈々として蠢く政治の保守勢力と戦う必要がある。安倍時代に行った教育委員会への人事介入、2007年の新しい教育基本法への組み替え、それに則った学習指導要領の改訂など、日本型能力主義と愛国主義はますます強化されている。

さらに悪いことは、デジタル社会への対応として、2027年の学習指導要領をデータ駆動型の個別学習を軸に変えようとしている流れが加わっていることである。水平的画一化の新たな仕掛けである。経団連の圧力により理数系優位の教育に傾斜している文科省は教育行政の母屋すら失いつつある。

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