教科書を読み、理解し、疑う。

数学書、誰と読みますか?

「可換環論bot」なんて大それた名を名乗っていると、数学書の選び方や勉強法についてのご質問もしばしば頂戴します。

質問:何故、数学者はゼミや輪講などみんなで(テキストを)読む機会が多いのでしょうか? 一人で読むのは難しいのでしょうか?

 ぼくたちが数学書を読む理由、それは(おそらく誰にとっても)数学を理解したいからという一点に尽きます。「数学なんか興味ないけど暇だから」という人もいるかもしれませんが、とすれば挫折に悩む必要はないわけで、数学書を読みたいと思ったのなら、やはり知りたいのです。

 逆に、数学を理解したいと思ったとき「数学書/論文を読む」ことは、数学に対するほとんど唯一とも言える勉強法です。一度でも数学を学ぼうと決意し、真っ向から数学書に取り組んだことがある人なら、たぶんその難しさをよくご存じかと思います。数学書を読むのは難しいのです。

 何がそんなに難しいのでしょうか。いくつか挫折するポイントを挙げてみましょう:
1. 今の自分にどの本が合う/読むべきかがわからない
2. どう読めばいいのかがわからない
3. どんなペースで読むべき/読めるのかがわからない
4. 解らないときどうしたらいいかがわからない
5. 自分が解っているのかがわからない
6. そして、長いモチベーションが続かない
さらっと挙げただけでも結構いっぱいありますね。そして、そのどれもがなかなかクリティカルにダメージを加えてきます。ことに数学を一人で勉強しようという人にとって、このハードルはなかなか高いです。

 ひとかどの期間、数学をきっちり学んだ(はずの)ぼくにとっても、このハードルはめちゃめちゃ高いです。特に4. と6. の対処法は未だにわかりません。

 ただ、このハードルを下げる方法がないわけではありません。それこそが「人と一緒に本を読む」という方法です。

一緒に本を読む利点

 数学を学ぶ人──特に学生──がセミナー(輪講会)を好むのは、これらのハードルを下げる効果があるからです。こちらもいくつか利点を列挙してみましょう。

1. メンバーがお互いのレベルに合わせて本を選べるから、レベルや興味から大きく外れた本は排除される。逆に、読みたい本に合わせてメンバーを募る方法もある。

2. 読み方は発表のスタイルにも左右される。本の通りに定義補題証明定理証明……という形式ならばそのように、本の内容を再構成して1時間で話すという形式ならそれに合わせて読むことになる。

3. ペースはセミナーの進捗そのものである。

4. 隣に同じ本を読んでいる人がいるので、どうしても困ったら聞くことができる

5. 自分が解っていないときは容赦なく突っ込まれ、黒板の前で立ち往生する。自分が解っていないことがよくわかる

6. メンバーに対する責任感がモチベーションを否が応にも高めてくれる。

 デメリットもあります。メンバーが集まるとは限らない。特に「この本を読みたいんだけど」といって集めた場合には顕著に。

教科書を疑う理由は、教科書が古びるから

 奇しくもこのご質問を頂いたころ、ノーベル医学・生理学賞を受賞された本庶佑先生の「教科書」についてのコメントが話題になりました。

教科書に書いてあることが全部正しいと思ったら、それでおしまいだ。教科書は嘘だと思う人は見込みがある。丸暗記して、良い答案を書こうと思う人は学者には向かない。『こんなことが書いてあるけど、おかしい』という学生は見どころがある。疑って、自分の頭で納得できるかどうかが大切だ」
出典:https://www.sankei.com/life/news/181002/lif1810020003-n1.html

 ここに出てくる「教科書」という語は、おそらく中等教育で用いられる教科書というよりは、高等教育の「テキスト」の訳語とみるべきでしょう。つまり、今この記事で話題にしている数学書などです。

 教科書には、その時々の最新の科学が詰め込まれています。それでも、それはいつになっても「総て」ではありません。ぼくたちがそれを理解しようがしまいが、その本はいずれ古くなります。

 数学に限っていえば、当時の最先端で数学者が寄ってたかって開発した道具を、次の世代の大学院生は普通に使いこなし、そうでなければ専門家にすらなることができないということはままあることです。次の世代は、次の世代の道具を開発し、新たな頂に上っていくのが科学の歴史だからです。

 まあ、本庶先生のコメントは(理論科学と実験科学の)ニュアンスの違いもあるものの、教科書は総てではない、その先に自分で見つける部分があるという点では共通しています。

 一人で本を読むときには、この「向こう側」を自分で見出さなければならないのです。これが一番難しかったりします。

他の人の視点は、自分にはない

 他の人と一緒に本を読む最大の利点は、実はこれかもしれません。他の人と一緒に同じ本を読み、本の内容について話し合うと、自分とは全く違う捉え方をされている(と気づく)ことがままあります

 この他の人の視線に触れることこそが、とても役に立つのです。

 例えば行列式です。一口に行列式といっても、その見方、捉え方は多岐にわたります。可逆性の判定に使えるというのはもちろん正しいですが、それだけでは多変数の微積分にヤコビ行列式が出てくる理由は説明できません。逆…も直接はできないでしょう。これらの現象の奥には「列ないし行ベクトルが張る図形の(向き付きの)測度」という意義付けがあり、それらを通して2つの現象を同時に理解することができます。総て理解してから言うのは容易いものですが。

 案外、人間一人が見通せる範囲は狭いです。そして一面的です。だからこそ、他の人のものの見方に触れ、自分の見方に照らし合わせることが有益なのです。

一人では、ダメなんですか?

 セミナーが有益なのはなんとなくわかったとして、セミナーができないときにはどうしたらいいのでしょうか。あるいは、無理なのでしょうか。

 そんなことは絶対にありません。数学書は一人でも読めます。あるいは、最近のインターネット環境は独学者の助けとなるはずです。

 挫折するポイントを押さえて対処できればいい、というのは理想論ではあるものの、できないことはないでしょう。

 矛盾するようですが、一人で数学書を読むときの利点の一つは、読み通せなくてもよいことです。挫折したなら、どうにも進めないなら、その本はちょっと積んでおいても良いのです。別の本を読んでから戻ってもいいし、あるいはもう読まなくても構いません。

 今、インターネットには探しただけの数学が存在します。最先端の論文も(限りはあるものの)入手できます。数学のブログやサイトも増えていますし、Twitter上の数学関連アカウントも多いです。さまざまな分野の書籍も大量に出版されています。好きなものを読んでいけばいいのです。

 その結果、一人で一冊読み通せたならば、それはまさに祝福すべきことです。独学者に幸あれ。

Twitter数学系bot「可換環論bot」中の人。こちらでは数学テキスト集『数学日誌in note』と雑記帳『畏れながら申し上げます』の2本立てです。