セミナーの愉しみ

数学を学ぶのに最適な方法は何か? 今は他にも方法が増えましたが、やはりセミナーが一番だと思えてなりません。

セミナーの進め方

セミナーはゼミとも呼ばれ(英語読みがセミナー、ドイツ語読みがゼミナールです)、数学科ではごく普通に行われている勉強法です。ぼくは他の学部学科で行われるゼミに参加したことがないので、よその分野のセミナー/ゼミでどんなことが行われているのかはよく知りません。

数学のセミナーは、大別すると勉強のためのものと研究のためのものに分かれます。後者は研究者が自分の研究をブラッシュアップするためのもので、この文章では扱いきれないので割愛します。

勉強のためのセミナーの進め方はだいたい同じで、参加者全員(または一部)で一冊のテキストを選び、このテキストを「全員で読む」のが基本です。毎回、当番を決めます。この当番が、ある程度の分量のテキストを次回までに読み進めてきて「こんなことが書いてある」と参加者の前で発表するのです。

「ある程度の分量」はそのセミナーのスタイルによります。時間は区切られているかテキストの範囲は決まっているか、で4通りに分類すると、どのセミナーも何処かには引っかかりそうです。

時間無制限・範囲無制限のセミナーとは、つまり「次回までに読めるだけ読んでこい」というものです。時間限定・範囲限定のセミナーは「与えられた範囲を時間内にまとめるプレゼン技術」が要求されますし、時間無制限・範囲限定のセミナーは詳細な精読を求められます。時間限定・範囲無制限のセミナーは、皆でざっとテキストの粗筋を追うのに適しています。それぞれ少しずつ別の能力が必要で、目的に応じて選びます。

読んできた内容について当番が話し、聞き手(他の参加者)はその話の内容について質問やコメントをします。このやり取りの中で、参加者の理解が深まっていくわけです。きちんと理解を深めようと思ったら、聞き手でも予めテキストを読んでくる必要があります。

中にはアドバイザー/チューターがいるセミナーもあります。大学の「研究室」でのセミナーが代表例で、教員が常に厳しい壁となって話を聞いています。解らないところを誤魔化すと、あっという間に見抜かれます。この他にも、先輩学生有志がチューターとなって、大学に入学したてのフレッシュマンを対象に催すフレッシュマンセミナーなどもそうですね。

一方で、総ての参加者が(程度の差こそあれ)対等な関係にあるセミナーもあります。自主ゼミと呼ばれるセミナーにはこのスタイルが多いですね。

なぜセミナーか?

数学科で数学を学ぶことの利点には、図書館が利用(文献にアクセス)できること、プロの数学者が身近にいて話を聞けることなどいろいろありますが、セミナーができることも大きいと思います。人によっては「セミナーがそんなに大きなこと?」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。ぼくがこう思うのは、ぼく自身がセミナーという学習方法の有力さを身を以て体感したからです。

初めて「セミナー」というものに参加したのは、大学に入学してすぐのことでした。数学科の学生がたむろする「控室」という部屋が学部棟の中にあり、ぼくはその部屋をサークルか部活の部室のように使っていました。比較的大きな部屋で、その部屋を戸棚で2つに区切って、一方がソファやテーブルの置かれたリラックススペース、もう一方が黒板と机が並ぶセミナー室になっていました。この部屋でぼくは学部3年まで、友人とよくセミナーをしていました。最初こそ先輩がチューターについてくれましたが、その後は自分たちだけで自主ゼミを組みました。

4年生になると指導教員につき(のちの師匠です)そこでぼくは Atiyah-MacDonald の『Introduction to Commutative Algebra』を初めて読むことになりました。今Twitterを眺めていると、フレッシュマンでもセミナーで読んでいるという人がいて(しかも少なくない)感心しています。

大学院に進学し、師匠を正式に師と仰ぐようになると、週2回のセミナー生活が始まりました。ぼくは可換環論・不変式論を専門にしたかったので、師匠は可換環論と代数群の表現論のセミナーを週1回ずつ組んでくれました。今ぼくがTwitter上でお目にかけている知識のほとんどは、この時期に吸収したものです。このセミナーで鍛えられて、未だに(かなり怪しくなってはいるものの)いろいろとご質問に答えたりできているのです。

昨今喧しく使われる語にアクティブ・ラーニングがありますが、セミナーこそはまさしくアクティブ・ラーニングの極みといえましょう。参加者がお互いにテキストを読んできて、お互いの理解を披瀝しあい、疑問を解消し、理解を深めていくのですから。

当番が回ってくると大変です。ただテキストを読むだけでは駄目です。テキストに全く行間がないケースはほぼ考えられません。何を「明らか」とするかは個人差があり、読者が「明らか」と考える部分より著者が「明らか」として省略する部分の方が多いのです。この行間を自分で埋めねばなりませんし、なんなら他の参加者の「明らかさ」の度合いにも配慮しなければいけません。出来る限りの努力をして、あらゆる質問が来てもよいように準備します。そして、きっとほとんどの場合は、それでも足りなかったと反省することになるでしょう。

セミナーを実現する困難

セミナーは、学生時代にしかなかなかできません。大学以外の場所では、まず参加者を集めるのが一苦労です。ただ興味の方向性が同じであればよいわけではなく、力量の差がありすぎると対等なセミナーは成立しにくいのです。お互いに得るものがあってこそ、セミナーを続けようという原動力が参加者に生じます。

であればこそ、セミナーを共にできる人がいる場は得難いものです。例えば、ぼくが今の環境で自分の好きなことを勉強したいと考えるとき、他の誰かに付き合ってもらってセミナーを組むのはかなり考えにくいことです。学部生の頃にセミナーに付き合ってくれた友人には感謝しています。

もっとも、この「参加者の力量の差」を埋めるものがないわけではありません。それは「セミナーにチューターをつけること」です。ある程度その分野に強い人に頼んでセミナーを仕切ってもらえば、参加者の間に一方的に「助ける・助けられる」の関係が生じることは少なくなります。

最近は大学の外にも数学を学ぶ場が増えています。大人のための数学教室などもあり、その中でどのように学びが進められているのかぼくは寡聞にして(文字通りの寡聞です)知らないのですが、常々「セミナー形式の学びの場が増えたら面白そうだな」とは思っているのです。


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