#2 ぐにゃぐにゃの定規📏📐


今日で10月が終わり、年末がチラついて来た。
50代後半から、いい意味での「やり残しリスト」を意識するようになった。
意識すると、超前向な意味で「いつ死んでもいい毎日」を送れるようになったと感じる。

しかし抗えないこととして、新しい考えや習慣と感覚的なズレが出てくることが多々ある。

そもそも習慣や文化って、年齢や取り巻くものによりかなり違う。
子供の頃は、真空管テレビが当たり前。禁じられた番組見ているところに親が入ってきて慌てて寝たふりしても真空管の名残りでバレるという…(これ、わかる人しかわかりませんが。笑)
それが、スマホやiPadが一人一台当たり前の今、違って当然よね。

年齢が同じでも、住んできた土地、更に、家庭環境により習慣や考え方があり、その数だけ価値観も違う。

今回、ベトナムから帰国して、日常生活の中で時々、あれ?っと感じてしまうのが「普通」や「当たり前」という言葉だ。
「普通」という言葉って、こんなによく使う言葉なんだと認識を新たにした。

最近の言葉で「普通に美味しい!」という使い方については「誰もが感じるようにとても美味しい」という捻りのある表現なんだろうと、これはこれで職業柄面白いと思うが、それとは別に「普通は〜しないよね」「変わってるよね」という言葉が登場する度に、あれ?あれ?と、あれあれポイントが溜まっていく。

私の「当たり前」は、当然ベトナムの「当たり前」とは大きく違う。
ベトナムで生活してて、大きく感じる習慣の違いは「人との距離」だった。

並んで歩く時は、親しくなると大人でも腕を組んで歩くなど、身体的距離もさることながら、心の距離もかなり日本より近い。
一度会ったら友達、友達は親戚、親戚は家族のような付き合いだ。

ベトナムでひとり暮らしだった私が体調崩したり、ベトナム語が出来なくて困っていたりすると、たった一日しかない休みを潰してでも力になろうとしてくれるベトナム人の友人がたくさん居た。

ハノイの渋滞の中では、バイクのコツン事故はしょっちゅうで、バイクが倒れると、示し合わせたかのように人が集まりみんなでバイクを立てて行く。

迷惑をかける方もかけられる方も、お互いに気にしてない。
ベトナム人って優しいなぁ…と驚く光景がたくさんあった。

ベトナム中部に出張中だったある日、出会って1週間のベトナム人の先生に、お金を貸してと言われた。給料前なのでと特に悪びれる様子もない。
私は「貸すことはできないけど、これはこの前のガイドのお礼に受け取って」と少額を渡した。
ベトナム人の先生は「あ、はい!」と気軽に受け取り、ちょっと、おい!っとなった😅

その後、ベトナムに住んでだんだんわかったことだが、中部は毎年台風の通り道になっていて、その度に田畑が無事だった家が村の人たちと財を分けあい支え合って来た所らしい。
南北戦争の間になったこともあり、常に貧しさと共にあった。
時代が変化して米がお金になっただけで、その根底は、当然のようにバイクを起こしたり、日曜日を潰して手伝ってくれる気持ちと同じなんだなと…

硬い定規で、自分の文化の中にあるものだけを良しとして、ないものは悪しきと決めること自体がナンセンスなんだろうなと思った。

柔らか頭でぐにゃぐにゃ定規で考えていくことが、この世の中にも私の老化防止にもいいのだろうと思う今日この頃🤣


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