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芸術体験の説明

芸術体験は言語の外にあります。

それは文学のような、言語を用いた芸術でも同様です。

実際に芸術体験をしたことがあるひとは、いま「そうそう」と頷いているでしょう。芸術体験がないひとにはただの文章として「そんな気がする」程度に感じられていると思います。

さて、芸術体験は言語の外にあるのに、僕は言葉で芸術を説明してきました。これは不毛なことではありません。

芸術体験の言語による説明で期待できる効果はふたつあります。

ひとつめです。芸術体験は言語の外側にありますが、その入り口になる「扉」の前までは言語によって誘うことができます。芸術体験から遠く離れたところにいるひとにはこれは有効です。

ただし、言語内から言語外へのジャンプは大きいもので、家に帰宅するような感覚では「扉」が開くことはありません。また、開けようとして開く「扉」でもないのです。作品の呼びかける力の強さ、鑑賞者の受け取る力の強さが必要です。不快さや違和感をノイズとして遠ざけるひとは作品の呼びかけに応えることができません。

この点は僕が常々「芸術作品は装置だ」と言っていることと繋がります。

主体は鑑賞者であって、芸術体験は作品と鑑賞者の化学反応のようなものとしてそこにやって来るものなのです。ここにはお互いの強さの他に相性が関係します。

また、芸術作品は、理解者(呼びかけを受け取る能力のあるひと)が世界からいなくなってしまえば機能しない装置、つまりガラクタになってしまうことを意味します。

ふたつめは、ひとつめと関係しますが、言語による認識が深まり、言語世界が言語世界として確立されていくほど、言語外世界がはっきりと輪郭を持つようになります。言語を自由に操れるようになると言語の限界が見えます。すると言語が相対化されて、メタ的な視点でそれを眺めることができるようになります。その外に立ったとき「これか」と自覚することが容易になります。概念を超えるために概念を知ってもらう、という試みです。

言語内が曖昧だと言語外も曖昧になり、自分の立ち位置が分からなくなります。

稀に存在する感性が豊かなひとは、言語世界が曖昧なまま言語外世界(芸術体験)を享受できますが、これは「才能」や「センス」と呼ばれるもので、多くのひとが備えているものではありません。

このような芸術エリートは「なんかいいね」などの、言葉としては深度の不足したように思えるもので十分なコミュニケーションができます。言語外を指し示す言葉をいくら深くしても意味がないことが分かっているのです。語彙の豊富さは彼らの前では無力です。

僕は芸術エリートでないひとにも芸術体験は可能だと考えています。芸術体験が不可能なひとは、芸術体験を意欲しないひとです。無意識的なものも含みます。先にも述べましたが、不快さやノイズを避けたいひと、社会内に収まる生活に満足しているひとはこれに当てはまります。

また、芸術エリートにも、感覚から一気にダイブするのとは別に、言語世界からのルートでの芸術体験を知ってもらうことで、芸術体験の在り方が変わること、具体的には再帰的に感じられることでよりそれが深まることを願って文章を書いています。

まとめます。

芸術体験は言語の外側にありますが、内と外を意識するために、内側を固めることは重要です。

言語の内側が充実するほど言語の外側を感じやすくなります。そのためにも概念の獲得や細分化が必要になります。

芸術体験ができることは自転車に乗れることに似ています。はじめは想像もつかないができてしまえばできてしまうものです。成功のコツは言語で説明可能ですが、成功そのものは乗る(する)本人が意欲して手に入れるものです。そしてそのジャンプは説明できない大きな隔たりを越えるものです。

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