あなたに私は絡みつく 第17話
第17話 律
欧介さんが東京へ行って今日で3日目。
どんな用事なのかは聞いていない。あの人が言わないことは、聞かれたくないこと。
たった3日だし。俺には朝顔ミッションがあるし。
メールに返信はなかったけど、今日の夜には戻ってくる。
朝飯のあとに隣の庭に入って、朝顔に水をやって、学校に向かう。
今日はテスト最終日で、午前授業だから、帰ってやることは決めていた。
家は、人の動きがないと途端に空気が淀む、と母親が言っていた。
朝顔に水をやるだけで、合い鍵は一度も使ってない。だけど、今日は櫻田家に入って、空気の入れ替えをする。
誰もいない家に帰ってきたときの、どんよりとした空気が、俺は昔から嫌いだった。
父親は昼から飲み歩き、母親は仕事。兄弟のいない俺は、一人きりの家に帰りたくなくて、夕方までよく公園で時間を潰した。
昼過ぎには家に着いた。
ばあちゃんの作ってくれた昼飯をかっこんで、すぐに隣の家に向かった。
合い鍵は、革紐に通して首に下げておいた。
「おじゃましまあす…」
鍵を開けると、奥から、はーいと欧介さんの声が聞こえないか期待してしまう。静まりかえった大きな家はやっぱり空気が淀んでいた。
俺はわざとどすどすと足音を立てながら、リビングに向かった。
俺の部屋から見える大きな窓を開けると、気持ちのいい空気が流れ込んできた。
小さな窓をいくつか開け放ってやると、風の道が出来て、すっかり空気が入れ替わった。
出掛ける前にきれいに片づけたらしく、キッチンに洗い物もない。が、冷蔵庫の扉に、何かメモが貼ってある。
「佃煮、赤い蓋の容器に入ってるよ」と、書かれていた。
流れるような文字。欧介さんの書く字を、初めて見た。大人の字だ。
俺は少し楽しくなってきて、家中を歩き回った。
多分、欧介さんは怒らない。金目のものはないって言ってたから大丈夫。
脱衣所の洗濯機の前に、タオルや下着が干したままになっていた。
さすがにそれに触れるのは気が引ける。畳んでおくとか、彼女じゃあるまいし。
ひげ剃りと、シェービングクリームと、歯ブラシと、整髪料だけのシンプルな洗面所。しかし整髪料使ってるような髪してたっけ?そういえば、東京行く日はちゃんとセットしてたな。
2階に上がって、卒業アルバムを見せて貰った寝室のドアを開けた。
びくっと、身体が飛び上がった。
ベッドが乱れたままになっていた。誰もいないのはわかっているのに、心臓が勝手にばくばくする。寝具からかすかに漂う、欧介さんの香り。
忘れかけていた、友達の言葉。
『あの家さ…連れ込み宿なんじゃ』
欧介さんは確かにゲイだけど、優しくて面白い俺の大事な友達。この街の人がどんな風に見てるのか知らないけど、そんないかがわしいことはしてない。
「あ、写真…」
寝室のドアを締める直前に、この間うっかり持ってきてしまった写真のことを思い出した。
持ってくるんだった。こっそり返すには絶好のチャンスだったのに。
でもなぜか、取りに帰ろうとは思わなかった。
返せない理由もある。
その時、玄関のインターホンがけたたましく鳴り響き、俺はもう一度飛び上がってしまった。
欧介さんが帰って来るには少し早い。そもそも鍵を持っている。
階段を駆け下り欧介さんがするみたいに、はーい、今いきます、と叫んでドアを開けた。
「…え、誰?」
ドアの前に立っていたスーツ姿の背の高い男が、俺を値踏みするように上から下まで舐めるように見て、言った。はっとした。うっかり自宅のようにドアを開けてしまったが、ここは欧介さんの家だ。
「あ…あの…」
「欧介は?留守?君は?」
「あの、俺、隣に住んでて、留守中の朝顔の世話を…」
空き巣だと思われただろうか。この人は欧介さんの友達?
どう考えても、この状況俺の方が不審者。体中から冷や汗が出てる。
「……高校生?」
「そうですけど…」
「へ~…なるほどね。欧介は、いつ帰ってくる?」
なるほどって何。よく分からないけど、失礼なことを言われている雰囲気でむかつく。
「今日の夜だと思います」
「あ、そう。じゃあ…待たせてもらおうかな」
「え、待つって、ここで?」
「そう。君、留守番してたんでしょ」
「留守番っつか…」
俺の返事を待たずに、そのスーツの男は靴を脱ぎだした。立ち尽くした俺の横をすり抜けながら、男は言った。
「大丈夫、俺、欧介の兄だから」
「えっ?!」
いや似てねえし?!
マジで?詐欺とかだったらやばくない?警察呼ぶ?
と、思ったのを一瞬で見透かされた。
「あ。今こいつ似てねえって思ったな?うん、詳しくは欧介の姉の夫。義理の兄ってやつね。心配なら、欧介に確認してみなよ」
「………」
「俺は、灰谷 司っていうんだけど。君は?」
「…咲枝 律です」
「はい、じゃあ律くん。とりあえず中入ろうよ」
灰谷さんは、遠慮なくリビングに入り、ソファに座ってテレビまで付けた。あまりにも慣れていて俺の方がいたたまれなくなる。
本当に義理の兄?
俺でも分かる高級品のスーツ。革のブリーフケースなんて、こんな田舎の町で持っている男はほとんど見たことがない。きっちりセットした髪と、慇懃無礼な雰囲気。欧介さんと歳はそう変わらなく見える。
テレビを見ながら、勝手に冷蔵庫から出したビールを飲む灰谷さんに聞かれないように、俺は二階に上がって欧介さんに電話した。
『ええっ?!司が?』
「あ、お姉さんの旦那って、やっぱり本当なんだ?」
『本当だけど…ってゆーか律、無事?』
「え?ぶ…無事だよ?殴られたりとかはないよ?そんな怖い人?」
『えっと…そういう意味じゃなくて…いや、とにかく、急いで帰るから!ごめん!』
ぶつっと電話が切れた。
とりあえず本人だということが分かってほっとしたが、欧介さんが帰ってくるまで、灰谷さんと二人っきりで過ごさなければならないようだ。
重い足取りで階段を下りると、待っていたのか、廊下の壁に寄りかかった灰谷さんがいた。
「電話、終わった?」
「あ、はい…」
「本物だったでしょ?そろそろ警戒解いてよ」
にやにやしながら、灰谷さんは缶ビールをぐいっとあおった。義理の兄にしては、遠慮がないというか、ずうずうしいというか。俺も人のことは言えないが、一応合い鍵も渡されているし、朝顔に水もやっている。何より、直接頼まれたんだから堂々としてていいはずだ。
「欧介さんが帰ってくるまで解けません」
「…おもしろいね、君」
「別におもしろくありません」
「…こわ」
言葉とは裏腹に、灰谷さんは楽しそうだ。俺の苦手なタイプ。いきなり距離を詰められるのは好きじゃない。
でもそれだけじゃない。
必要以上に匂わす欧介さんとの関係の近さ。本当の兄弟ならまだしも、義理の弟にあたる人の家に、なれなれしさ100%で入りこむ神経が理解できない。
俺はリビングでくつろぐ灰谷さんから離れて、キッチンの隅に置いてある椅子に腰掛けて欧介さんを待った。
冷蔵庫からコーラを出した。欧介さんは甘い飲み物を飲まないから、多分これは俺用だ。
「ねえ、少年」
「…律です」
「律くんは。欧介とどういう関係?」
わざわざキッチンまでやってきて、灰谷さんは聞いた。空いた缶を灰皿にして、煙草を吸っている。煙が俺の頭上で渦巻いていた。
「…隣に住んでるって言いましたよね」
「それは関係って言わないでしょ」
「友達…です」
「ふーん…歳の離れた友達って、話合うの?」
「合いますよ。…合わせてくれてるんだと思いますけど」
「謙虚だねえ……で、それだけ?」
「それだけって…」
キッチンのカウンターに肘をついて、灰谷さんは身を乗り出してきた。
「友達以上のことは?」
何を言わせたいのか、ピンと来た。多分この人は、欧介さんがゲイなのを知ってる。さらに俺をからかおうとしてる。
その手にのるか。
「以上って何ですか」
「…知ってんの?」
「何をですか」
灰谷さんが煙草の火を消した。換気扇を回してなかったから、キッチン全体が煙たい。欧介さんは、俺の前で煙草を吸わない。
じっと目を見つめてくる。口は意味ありげに端だけが上がっている。
もしこの人もゲイだとしたら、欧介さんとはずいぶん違う。ハイエナみたいな目をしてる。ちょっと身の危険を感じるレベル。
ちらりと壁の時計を盗み見た。電話してから、小一時間。欧介さんはまだ列車の中だろうか。
「あいつ、ゲイだよ」
そら来た。知ってるっつの。だから何だ。
「………」
「…やっぱり知ってんだ。ま、じゃないと留守頼んだりしないか」
「それは関係ないと思います」
「そう?…それにしても、隣に住むだけの高校生に合い鍵渡すなんて、欧介らしくないんだよねえ…本当に何もないの?いたずらとかされてない?」
「いっ…」
顔に血液が集中して、熱い。何てこと言うんだ、この変態。
「あらら、真っ赤っ赤。ごめんね、エッチなこと聞いて。まあ…その様子なら手つかずか」
「…欧介さんはそんなことしませんっ!」
俺の言葉に、灰谷さんは目を丸くした。そして笑い出した。
「あー、はいはい…分かったよ、ごめんって」
「何がおかしいんですか」
「いや…大事にされてるんだなあ、と思ってさ。ごめんって、もう聞かないからそんな怖い顔しないでよ」
「………」
その時、玄関でがちゃがちゃ鍵を回す音がした。
欧介さんが帰ってきたんだ。
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