「働かないおじさん」より「働かないおじさんを批判するおじさん」の方が多いのではないか

最近、雇用慣行や雇用形態について整理しています。そこで本題ではないですが、かなり気になる傾向があることに気づきました。すなわち世の中には「○○のおじさん」「○○の中高年」を批判したくてうずうずしている人で溢れかえっているのではないか、ということです。「批判される人」より「批判している人」の方が多いのではないか、と思えるほどです。
「働かないおじさん」を批判しているおじさん、おばさんはたくさん見ますが、「はい、わたしは働かないおじさんです」と言っている人は見たことがありません。批判する論調をみて、一緒になって批判する側にポジショニングする評論家、インフルエンサー等々で溢れかえっています。
この系統の論調をみると、内容と別にメディアの姿勢がよくわかるような気がします。見出し、小見出しがセンセーショナルで、蔑みの対象を設定して明確化している点です。そういう意味ではセンセーショナルに見せるメディアの問題でもあるのかもしれません。
 最近の例でみると、「何者にもなれなかった中高年」・・・(何者って、まさか会社で少し出世した程度で「何者かになった」とか思ってないだろうな。と思ってしまう「何者にもなれなかった」私です)「働かないおじさん」「不活性中高年」等々。
このような「○○のおじさん」批判の前提は、問題を解決する気がないことだと思います。なぜかというと
「お前はバカだ!どうしようもないほど社会で役立たずだぞ」といわれて、「はいそうです、私は言われる通りダメなので、これから反省して、心を入れ替え、頑張ってみます」となるような人は普通存在しないと思われるからです。つまり、対象となっている人(○○のおじさん)が、それによって努力しようという気になることを100%期待していない(つまり問題を解決しようと思っていない)論法ー取り上げ方だということです。

さらに次があります。私は極めて凡人なので、たぶん、「批判される」側でしょうが、こういう「何者にもなれなかった」とか「働かないおじさん」としてグルーピングされて批判された場合、自分はそのグルーピングされた集団には属していないから関係ないなと思います。だから世の中には「批判する人は溢れている」が、「批判されている人は見当たらない」ということになります。
実はこれには理由があって、そもそも批判している人は、コインの裏表的に「働かない」「何者にもなれなかった」と設定しています。ところが、問題の本質は、色水のような性格を持っています。濃い色水を水で希釈すると薄くなります。お前はダメな奴だという時、(定義が明確であれば)そのダメさは、極めて大きくダメから徐々に小さくなって少しダメ、さらに普通、更に小さくなって・・・という連続的なものです。したがってどこで線を引くかで「ダメ」が変わってしまいます。このため「批判する人間」と「批判される人間」には対応関係がありません。個人的にいうと、批判している人間を、いやお前もその批判される側の仲間なんじゃないのか?といえるほどです。連続的なものですから、線引きする位置が違うと、批判しているお前だってダメじゃないかと言えてしまいます。
それにしても本当に問題解決したいなら、対象となる人を最初からバカにすることで論を展開する話の仕方、書き方は変えたほうが良いのではないでしょうか。そうでないと低次元の優越感をひけらかしているだけに思えます。それにしてもこの問題は、批判している人だけでなく、それを取り上げるメディアの姿勢が大きいように思えます。
人をグルーピングして考えない。自分を人と比べて優越感や劣等感を持たない。そういう意味で、人に関心を持たない。物事をコインの裏表で決着つける論法に与しない。最近の「○○のおじさん」批判論法に思うことです。


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