Sallyって誰だよ? / ポップ・ソングスの歌詞中で、代名詞的な使われ方をする人名について

 ポピュラーミュージック史上もっとも有名なSallyは、Oasisの"Don't Look Back In Anger"に登場するSallyってことで、皆が手打ちにするだろう。Sally can wait、というくだりである。かつてうんざりするほど聞いたし、もう二度と聞かなくていいが、誰かがカラオケで歌い出すと合唱せざるを得ない。

 十年前、恩師が戯れにこの曲の歌詞を印刷したものをみんなに配り、なあこのSallyって誰やと思う? みたいな話で一コマを手早く攻略していたが、それを熱心に勉強していた学生のなれの果てがこれである。おれはこのひとが好きだったので、先生もオアシス好きなんですね! と授業がはけたあと話しかけたら、いや、べつにおれはオアシスが好きなわけちゃう、ただ気になっただけや、と仰った。え、何それ……で、先生、Sallyって結局誰ですのん?

 そういうわけでおれはこの十年間、歌詞のなかに代名詞のような使われ方をする人名が登場するたびに、それで、この○○って誰やねん、という疑問を抱いてきた。

 結論を先取りすれば、すべての人名は、個別の言語がそれ自体に固有のエッセンスを保存するための種子である。このSallyは、誰か特定のSallyを指すものではない。

 アイルランドのバンド、Fontaines D.C.は、つい一月前に出た新曲、"Jackie Down The Line"の歌い出しでいきなり、

My friend Sally says she knows ya, got a funny point of view…
おれの連れのサリーはあんたを知ってる、おもしろいことを言ってたぜ……

 と始めている。あるいはイギリスのバンド、IDLESは、二年前の名曲"War"の終盤で、

Send Sally to the sandbox baby, send Johnny to the open fire…
サリーは砂場に、ジョニーは銃火のど真ん中に送れ……

 と歌っている。しかしこれらのSallyは軽音楽の担い手たちの共通の美神とかではなくて、人名ならほんとうに、でもいい。誰でもないからだ。ストーンズにはAngieが、マイコーにはBillie Jeanが、キンクスにはLolaが、SlowdiveにはAlisonが、Fontaines of WayneにはStacyのママがいる。アルフィーならメリーアンだし、サザンならいとしのエリーだし、北島三郎なら与作が木を切るだろう。ヘイヘイホー。

 うけを狙っている場合ではない。結論に移ろう。これらの人名は、三人称の採用である。Bap bap bap…とか La la la…ばかりでは済まされないようだから歌詞を書く。しかし「わたし」が喋っているのだから、歌詞中にも「わたし」を採用せざるを得ない。しかし、「おれ」とか「あんた」ばかりでは息が詰まる。どうしたものか?

 いろいろな迂回路があるが、Sallyに関してもそのひとつだ。突拍子もなく人名を採用することで、歌い手と聞き手の接続にバッファーが生まれる。Sallyって誰なんやろ、こんなふうに歌ってはるってことは、こんな子かな……と、そのバッファー領域で想像が膨らむ。聞いてるほうもそうだが、歌ってるほうにしても、ああSally、正直おれも誰か知らんけど舌に心地よいSally! と、情感をこめていると思う。これはりっぱな文芸技法といえる。

 つまり歌詞中のすべての「誰やねん」な人名は、音符とシラブルの関係上、もっともズッポシはまるものが作詞家によって採用されている。したがって、音楽にのせられているときのSallyとAlisonの差異は、発音とシラブルの数のみである。

 もしも文芸が技巧のみによって達成可能なものであるならば、本の表紙に著者名を記載する必要はなくなるだろう、とボルヘスは言った。われわれが歌詞を書き、発音とシラブルの関係上からSallyあるいはAlisonと置く。われわれが音楽を聴き、その体験が惹起するSallyやAlisonを想像する。

 これらの解釈はいずれも技巧に属するものだ。しかし、われわれは、SallyやAlisonといった名の語源的由来を正確には知らないし、われわれ自身の姓名についてもそうだろう。したがって、ある曲/われわれの持っている姓名は唯一のものであり、だからこそありふれているのだ。芸術とは、人生がそれだけでは充分でないと感じる人々の反抗である。

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