J.L.ボルヘス「シェイクスピアの記憶」 拙訳

 ペンギンブックス版のボルヘス全著作集(Andrew Hurleyにより英訳されたもの)を、ここ数年ぱらぱらと読んでいるのだが、巻末に収められた短篇 Shakespeare's Memory を日本語で読んだ覚えがどうもない。そこで調べてみると、やはり未訳であるとのことだった。遺作(なのかどうかはわからないけど)が未訳となっている理由については、鯨井久志さんの記事「失われた短編を求めて――ボルヘス唯一の未訳短編「シェイクスピアの記憶」について」に詳しい。ここで書かれているとおり、この短篇が日本語で、正当な手続きを踏んで(つまりプロの翻訳者が責任ある出版社を介して仕事をし)発表されるという見込みは、ずいぶん薄いようだ。鼓直先生に、どうか安らかな眠りがありますように。

 そこで、まあ、やることにした。わたしはべつに翻訳者ではないし、どうやっても構文が理解できない部分がみっつくらいある。もとにしたテキストはそもそもスペイン語から英語に翻訳されたものだから、これは重訳である。作中固有名詞の読みかたがこれでいいのかどうか自信がない。いろいろと問題はあるのだが、かといって出さない理由もない。面白いのである。御大がこれを書いたときにはそうとうお迎えが近かったと思うのだけれど、そうとは思えないくらいの迫力なのだ。これはみなさんにぜひ読んでもらいたい。ただし、まちがいだらけだと思うので、偽書だと思ってくださいね。

「シェイクスピアの記憶」 ―― Shakespeare's Memory / 藤田祥平 訳

 この世にはゲーテの、『エッダ』の、『ニーベルンゲンの歌』の信奉者たちがいる。わたしの運命はシェイクスピアだった。今でもそうだが、しかし誰もが予期しないかたちで。ひとりの人間を救うことは、誰にもできない。先日、ダニエル・ソルペがプレトリアで死んだ。ここにべつの者がいる、その顔をわたしが見たことのない者が。
 わたしの名前はヘルマン・ゾーゲル。物好きな読者は、わたしが物した『シェイクスピア年表』の頁を開いた〈ルビ:リーフ・スルー〉ことがあるかもしれない。わたしはかつてこの本を、テキストの正当な理解に欠かせないものだと見なしたこともある。この本はスペイン語をふくむ、いくつかの言語に翻訳された。あるいは、1734年にセオバルドの決定版が挿入した校訂にたいする、わたしの長々しい批難を読者が思い出すことも、まったくあり得ないことではなかろう。この校訂は、正典における、ある十分に検討されずに受け容れられたシーンが原因なのだ。今日では、わたしはこれらの批難の頁の不躾さにすこし面食らわされ、その頁を書いたのではわたしではなく、べつの者だと言ってしまいそうになる。1914年に書いたが、出版はしなかった草稿のなかで、ギリシア主義の劇作家であるジョージ・チャップマンが、ホメロスを訳出するために鋳造した言葉について、わたしは語った。これらの言葉を造るとき、その仕事が、英語をアングロサクソンのルーツ――言語の起源〈ルビ:ウーシュプング〉に引き戻すものであることに、チャップマンは気づいていなかった。いまとなっては忘れてしまったチャップマンの声が、いつの日かわたしにとって親しいものになるかもしれないとは、けっきょく一度も思わなかった……散乱した文献学や批評の「ノート」(と彼らは呼んでいるが)、わたしのイニシャルがサインされた〈完全版〉が、わたしの文芸の伝記であるようだ。しかしわたしは、けっきょく出版しなかった『マクベス』の訳業をここに含めることに同意するかもしれない。それはわたしの心を、1917年に西部戦線で倒れたわたしの弟、オットー・ユリウスの死から引き離すためにはじめられた仕事だった。わたしはこの劇を完訳しなかった。訳出作業中に気づいたが、英語には(これは賞賛の言葉だが)ふたつの記憶――ゲルマン語とラテン語――が含まれており、いっぽうわたしたちのドイツ語は、すぐれた音楽的な響きを持ってはいるが、ただひとつの記憶で満足するほかないのである。
 ダニエル・ソルペのことに、わたしは触れた。わたしはバークレー大佐にソルペを紹介してもらったのだが、それはシェイクスピアにかんする学会でのことだ。いつどこで行われたものか、言うつもりはない。そうした詳細が漠然としたものであることを、わたしはよく知っている。
 わたしの弱まった視力が忘れさせたダニエル・ソルペの顔立ちよりも重要な描写は、知人たちにもよく知られた、かれの運の悪さであった。人間はある年齢に達すると、さまざまなことを装っていられるようになるものだが、幸福はそのうちに含まれない。ダニエル・ソルペがもっていたメランコリーの空気は、ほとんど肌で感じられるほどだった。
 長い会合のあと、夜がパブを連れてきた――ロンドン市中のどこにでも存在しうる無限定のパブを。自分たちがイングランドにいることを(もちろん実際にいるのだが)もっとよく実感するために、わたしたちはシロメ合金の祭器ふうのマグで、暖められた黒いビールを何杯も飲んだ。
「プンジャブでのことだが」と、大佐がそれまでの会話を継いで言った。「わたしの連れの男が物乞いにかんする話をした。イスラムの伝説にあるようなのだが、ソロモン王はかつて、それを身につける者に、鳥たちの言葉を解する力をあたえる指輪を持っていた。そしてこの物乞いは、どういうわけか、その指輪を手に入れたらしい。その指輪の価値はあまりに高く、どうやっても換算できないものだったから、このかわいそうな物乞いはそれを売ることができなかった。そしてかれはラホレにあるワジル・カーンのモスクの中庭で、独り死んだそうだ」
 この話はおそらくチョーサーも知っていただろうなとわたしは思ったが、しかしそう言及することは、バークレー大佐の小話の興を削ぐような気がした。
「それで指輪はどうなった?」とわたしは言った。
「もちろん失われたよ、そういう魔法の道具はいつだって失われるものだろう。たぶんモスクのなかの秘密の隠し場所にいまもあるか、鳥が一匹もいない土地で生きる兄さんの指で輝いているか、といったところだろうな」
「あるいは鳥だらけの土地にあるだろうね」とわたしは言った、「あまりにうるさくて、個別の声が聞き取れないようなところだ。あなたがしてくれた話には、なんだかたとえ話のような感があるね、バークレー」
 ダニエル・ソルペが口を開いたのはそのときだった。かれはどこかそっけなく、わたしたちを見ずに話した。かれの英語には一風変わったアクセントがあったが、わたしはそれを、かれの東部戦線での長い滞在に結びつけた。
「それはたとえ話じゃない」とかれは言った。「たとえそうだとしても、関係ない。本当にありうる話だ。この世には価値が高すぎて、決して売ることのできないものがある」
 そのときわたしが形作ろうとした言葉は、ダニエル・ソルペがいま述べた信念よりも貧弱だった。わたしたちはかれがその発言に加えて、なにか話を継ぐだろうと思ったのだが、しかしかれはとつぜん押し黙った、まるで言葉を発したことを後悔するかのように。バークレーが別れを告げ、わたしとソルペはともにホテルに戻った。かなり遅い時間だったが、ソルペはもうすこし話を続けようと、わたしをかれの部屋に誘った。とりとめのない話の短い交換があり、そのあとでかれは言った。
「ソロモン王の指輪が欲しいか? きみにあげてもいい。もちろん、これはメタファーだ、でもそれが暗示しているものは、ソロモン王の指輪にまったく劣らず、素晴らしい。シェイクスピアの記憶――かれがもっとも若かった1616年4月の少年時代からつづく記憶を、きみにあげてもいい」
 わたしはなにひとつ答えられなかった。海を、きみにあげてもいいと言われたようなものだった。
 ソルペは続けた。
「わたしは詐欺師ではない。狂人でもない。わたしが語り終えるまで、判断を差し控えてくれるよう、お願いする。わたしのことを軍属の内科医だと、バークレー大佐はあなたに紹介したはずだ。この話はじつに簡潔に終えられる。それは東部戦線の、野戦病院の、明け方のことだった。正確な日付には意味がない。前線で二度撃たれたアダム・クレイ(訳者注:Adam Clay、土塊アダム)という名の士官が、ほとんど最後の息をひきとる直前、わたしにこの記憶をあげてもいいと言った。きみにもわかるだろうが、熱と痛みはわたしたちをクリエイティヴにする。わたしはその申し出を、信じもせずに受けた。つまりだ、戦いのあとでは、どんなことだって普通に見えるものだからね。かれはこの贈り物にかんすることを、最期の時までのほんのわずかな時間で、どうにか説明してくれた。それを所有する者が、それを誰かに与えようとするとき、大きな声で表明しなければならない。そして、それを受け取る者も、大きな声で表明しなければならない。それを与えたものは、それを永遠に失う」
 その兵士の名前と、あまりに作り物めいた戦場の贈与のシーンが、わたしにもっとも悪い意味での〈文学的感興〉を与えた。この話を聞いて、わたしはこの件への疑いを持った。
「それで、あなたはいま、シェイクスピアの記憶を所有しているのですか?」
「わたしが所有しているものは」とソルペは答えた。「ふたつの記憶だ――わたしの個人的な記憶と、もはやわたしが部分的にかれである、シェイクスピアの記憶と。いや、というよりは、ふたつの記憶がわたしを所有しているんだ。とはいえ、このふたつの記憶が溶け合う場所がある。そこに、女の顔が見える……しかしわたしには、それがいったいどの世紀に属するものなのか、わからない」
「そのシェイクスピアの記憶を用いて――」とわたしは問うた。「あなたはなにかしましたか?」
 沈黙があった。
「フィクションふうの自伝を書いた」と、かれはやっと言った。「それは批評家たちの侮辱を集めはしたが、合衆国やいくつかの植民地で、商業的には小さく成功した。それだけだ、と思う……わたしの贈り物は、形だけのものでないと伝えたはずだ。わたしはきみの答えがほしい」
 わたしは考えた。しかし、わたしはこの人生を、精彩を欠くが奇妙な生涯を、シェイクスピアを追い求めることに捧げたのではなかったか? この苦役の最後にやっと、かれを見つけ出すのだ。それが公平でないと言えるだろうか?
 わたしは言った、ひとつひとつの単語をしっかりと発音して。
「わたしはシェイクスピアの記憶を受け取ります」
 なにかが起きた。疑いの余地もなかった。しかしわたしは、なにかが起きたことを感じなかった。
 おそらくはちょっとした疲れの感覚、おそらくは、想像上の。
 わたしはソルペがつぎのように言ったことを、明らかに思い出す。
「記憶はきみの心に入ったが、しかしそれは『発見』されなければならない。それは夢の中、あるいは目覚めているとき、きみが本の頁をめくるとき、曲がり角を曲がるときに、現れ出るだろう。辛抱強くやることだ――記憶を造りだしてはいけない。この記憶の不思議なしくみは、思い出す助けになることもあるだろうし、あるいはそうならないこともあるだろう。わたしが次第に忘れていくにつれて、きみは思い出す。この過程にどれくらいの時間がかかるのかは、わたしにはわからない」
 わたしたちはその夜の会話を、シャイロックの人物造形について語ることに費やした。わたしはシェイクスピアが、ユダヤ人と個人的に関わりを持っていたのかどうかを突き止めたくなったが、控えた。ある種のテストにかけられているのではないかと、ソルペに思ってほしくなかったのだ。わたしはかれの意見が、わたしに劣らずアカデミックで月並みなものであることを(安堵とも不安ともつかない気持ちで)発見した。
 その夜はまったく眠らなかったが、つぎの夜も、わたしはほとんど眠らなかった。わたしは自分が、何度も繰り返し知ってきたことだが、腰抜けであるとを知った。失望への恐れのために、わたしは自分を希望へと運んでやることができなかった。わたしはソルペの贈り物がたんなるまやかしであることを望んだ。しかし希望はやって来た。まったく抵抗することができなかった。わたしはシェイクスピアを所有した、それも、どんな人間もかつて行わなかったやりかたで――愛でも、友情でも、あるいは憎悪でもないやりかたで。わたしは、ある意味で、シェイクスピア自身だった。べつに悲劇や入り組んだソネットを書いたということではなく――ただわたしは魔女たち(それは運命でもある)がわたしに明かされた瞬間を思い出し、つぎのような詩行がわたしに明かされた瞬間を思い出しただけだ。

And shake the yoke of inauspicious stars
From this world-weary flesh.

この世に倦いた肉体を
不吉な星どもの軛から解き放て。

 わたしはアン・ハサウェイを、何年も昔にリューベックのアパートでわたしに愛の手ほどきを教えてくれたある年上の女性を思い出すように、思い出した。(わたしはその女性を思い出そうとした、しかし私が再現し得たのはアパートの壁紙、黄色の壁紙、そして窓から入ってくるあたたかな日差しだけだった。この最初の失敗が、後に続くものに影を投げかけたのかもしれない。)
 このすばらしい記憶は、おもに映像によって来るだろうとわたしは仮説を立てていた。しかし実際はそうではなかった。数日後、髭を剃っているとき、わたしは鏡にむかって奇妙な言葉の連なりを発した――わたしの同僚は、それはチョーサーの『A. B. C.』に現れるものだと指摘した。ある日の午後、大英博物館を後にするとき、わたしがそれまでに聞いたことのないシンプルなメロディーを、わたしは口笛で吹いた。
 読者のみなさまは当然ながら、これらの初期の啓示における、ある種の傾向を見て取ったことだろう。そう、それは、メタファーの荘厳さにもかかわらず、おおむね映像的というよりは、音声的であった。
 ド・クインシーは書いている、われわれの脳はパリンプセストだと。すべての新たなテキストは古いテキストを覆い、そしてそのテキストは続くテキストに覆われる――しかし強力な記憶は、あらゆる印象を掘り返す。それがどんなにつかの間のものであろうとも、有効な刺激さえ与えられれば。遺言のために、シェイクスピアの邸宅には一冊の本も、聖書さえも残されなかったが、しかし彼が親しんだ本は誰もが知っている――チョーサー、ガワー、スペンサー、クリストファー・マーロウ、ホリンズヘッドの『年代記』、フロリオの訳したモンターニュ、ノースの訳したプルタルコス。わたしは、少なくとも潜在的には、シェイクスピアのものだった記憶を所有している。だとすれば、これら古の書物をひもとけば(つまり再読すれば)、それがわたしの求めていた刺激になるのではないかと考えた。またわたしは、臨場感ある刺激をもとめて、かれのソネットを再読した。しばしばわたしはそれらに対する解釈を、多数の解釈を得た。よき詩行は、大きな声で読まれることを求めていた――たった数日で、わたしは苦労もなく、十六世紀のとがったの音と、開いた母音を再発見した。
 雑誌「ゲルマン語の言語学」(Zeitschrift für germanische Philologie)に寄稿した記事のなかで、ソネットの127番はスペインの無敵艦隊の記憶に残る大敗に言及したものだと、わたしは書いた。1899年にサミュエル・バトラーが同様の論旨を、論文のなかでより深く追求していたことを、わたしは忘れていた。
 ストラトフォード=アポン=エイヴォンへの旅は、予期されたことだが、実りのないものだった。
 そしてわたしの夢の漸進的な変化がはじまった。それはド・クインシー風のすぐれた悪夢でも、かれの師であったジャン・ポールの信仰的寓意に満ちた映像でもなかった。それは正体不明の部屋と顔ぶれで、わたしの夜に入ってきた。わたしが見分けることのできた最初の顔はチャップマン、つぎにベン・ジョンソン、そしてほかには――伝記には現れないが――かれがよく見かけていた、詩人の近所に住む人の顔。
 百科全書を手に入れる者は、それによってすべての行、パラグラフ、頁、挿絵を手に入れるわけではない。かれが手に入れるのは、それらのものをいつの日にか知るかもしれないという、可能性である。もしもこのルールが、具体的で、かつ比較的に単純なもの(たとえば、そう、それらの事物のアルファベット順であるとか)に適応されるのだとしたら、抽象的で変化に富んだもの―― ondoyant et divers に対しては、いったい何が起こるのだろう? たとえば、死人の魔術的な夢に対しては?
 かれの生涯の豊かさを一瞬のうちに把握することは、誰にもできない。わたしの知る限り、そのような才はシェイクスピア自身にさえ与えられなかったし、かれの部分的な跡取りにすぎないわたしには、尚更のことだ。ある人間の記憶は要約ではない。それはあいまいな可能性の混沌である。わたしの記憶違いでなければ、聖アウグスティヌスは説いている、そこに記憶が収められている宮殿や洞窟のことを。ふたつめのメタファーのほうが効果的だ。わたしが下りていったのは、そうした洞窟だったのだから。
 わたしたちのものと同様に、シェイクスピアの記憶には、影でできた巨大な地域があった――かれが頑なに拒んだ記憶の地域が。ベン・ジョンソンがかれにラテン語やギリシャ語の六歩格を朗読させたこと、そしてかれの耳が――ほかに比するべきもののないシェイクスピアの耳が――いかにそれらの詩行のなかで、そして友人の陽気さのなかで戸惑ったかを知るとき、わたしは驚かずにいられなかった。
 普遍的な人間の経験を超越した幸福や暗闇の状態を、わたしは知った。
 わたしが気づかぬうちに、長く熱心な孤独が、奇跡を受け容れるわたしの素直さを準備していた。一ヶ月ののち、死人の記憶がわたしに生命を吹き込んだ。奇妙に幸福な感じのする一週間のあいだ、わたしはわたしこそがシェイクスピアだと、ほとんど信じた。かれの詩はわたしに、まったく新しい喜びを与えた。わたしは知った、シェイクスピアにとって、月は月であるよりもダイアナで、ダイアナはダイアナであるよりも、あの暗く、長く引き延ばして発する言葉―― moon であると。わたしはまたべつの発見をした。シェイクスピアの詩行の見かけ上の不注意――ユーゴーの言うところの absences dans l'infini 無限における不在――は、意図的なものだ。シェイクスピアはそれらの存在を許した――というより、それらを内挿した。そうすることで、最終的には舞台で朗読されるかれの詩行は、まるで自然にその場で生まれたかのようになり、磨かれすぎでも、人工的でもなく感じられるのだ(nicht allzu glatt und gekünstelt)。おなじ目的から、かれはメタファーを混淆させた――

my way of life
Is fall'n into the sear, the yellow leaf.

わたしの人生(ライフ)は秋(fall)だ
黄色くなって落ちていく(fall)葉(リーフ)だ。

 ある朝のことだが、わたしはかれの記憶のなかに、深い罪悪感を見つけた。わたしはそれを定義しようと試みなかった。シェイクスピア自身も、いつもそのようにしてきたのだ。曲解は、罪と共通するところをなんら持たない、と言えば事足りるだろう。
 人間の三つの能力――記憶、理解、意志の力――は、単なるスコラ派のフィクションではないようだと、わたしは気づいた。シェイクスピアの記憶は、シェイクスピアという男の状況だけを、わたしに明かした。明らかに、これらの状況は詩人の特異性と等しくなかった。つまり、重要なのは、詩人が壊れやすい材料をもちいて作り上げた、文学のほうなのだ。
 ソルペがそうしたように、自伝の執筆を考えるくらいには、わたしは純朴だった。しかしながら、その文芸のジャンルはわたしが持たない才能を要求するものだった。わたしは物語の語り方を知らない。わたしはわたし自身の物語――それはシェイクスピアよりもかなり非凡なものなのだが――を語る術を知らない。加えて、そうした本は無意味だろう。機会や運命といった、すべての者を襲う恐ろしき瑣事は、やはりシェイクスピアをも襲った。しかしかれの才能は、そうしたことどもを寓話に、かれらを夢見ている灰色の男よりももっと生き生きとした登場人物たちに、二度と忘れられることのない韻文、口頭の音楽にへと、昇華したことにあった。このようなすばらしい織物を引き裂き、打ち立てられた塔を包囲して引きたおし、ドキュメンタリーや自伝に堕すことに、なんの意味があろう、あの音と怒りに満ちた『マクベス』を?
 だれもが知るとおり、ゲーテはドイツの公的な宗教である。懐古の情を抜きにして主張されることのないシェイクスピアへの信仰は、より私的なものである。(英国においては、公的な宗教はシェイクスピアであるが、かれはあまりにも英国人らしくない。ところで、英国の聖なる書物は、聖書である。)
 この冒険の初期の段階において、わたしはシェイクスピアになる喜びを味わった。後期の段階において、わたしは恐怖と抑圧を味わった。はじめのうち、ふたつの記憶の水は混じり合わなかった。しかし時間と共に、シェイクスピアの雄大な流れは、わたしのささやかなせせらぎを脅かし、ほとんど飲み込みかけた。あるときわたしは、わたしの両親の言語を忘れつつあることを、喜びとともに書いていた。個人性は記憶によって担保される。わたしは自分の狂気を恐れた。
 友人たちがしばしばわたしのもとを訪れた。わたしが地獄にいることをかれらが見抜けないことに、わたしは驚いた。
 日常のことども(die alltägliche umwelt)への理解を、わたしはしだいに止めた。ある朝、わたしは鉄や木やガラスで出来たさまざまな形象がごった返す場所で、迷った。悲鳴や耳を聾する雑音がわたしを悩ませ、混乱させた。それらがブレーメン駅に停車した車両やエンジンであることに気づくまで、(無限のようにも感じられたが)かなりの時間がかかった。
 すべての人間は、年月がふるにつれて膨らむ記憶の重みに耐えることを強いられる。わたしはふたつの記憶(ときにそれらは混ざり合っていた)の下で苦しんだ。わたし自身のものと、理解できない他者のものの下で。
 スピノザによれば、すべてのものの望みは、それらのものであり続けることだ。石は石でありつづけること、虎は虎でありつづけること――そしてわたしはもういちど、ヘルマン・ゾーゲルになりたいと望んだ。
 自分自身を解放することを決めた日がいつだったのかは、忘れてしまった。いちばん簡単な方法を選んだ。でたらめな番号に電話をかけたのだ。子供か、あるいは女の声が答えた。かれらの傷つきやすい住まいを慮ることは、わたしの義務であるように思った。やっとのことで、男の声が電話に出た。
「あなたは」とわたしは聞いた。「シェイクスピアの記憶を求めますか? よくお考えになってください。これはとても大切なことなのです」
 疑いにみちた声が、答えた。
「いいでしょう。わたしはシェイクスピアの記憶を受け取ります」
 わたしは贈り物について説明した。矛盾したことだが、わたしはわたしが書くべきだった本、そしていまや決して書くことができなくなった本へのノスタルジーと、わたしのなかにいる客、亡霊が、二度とわたしのもとを去らないのではないかという恐怖とを感じた。
 わたしは電話を置き、なんども繰り返した、おまじないのように、この、諦めの言葉を。

Simply the thing I am shall make me live.
わたしであるものがわたしを生かす。

 わたしは古い記憶を目覚めさせる手法を発明したが、いまやそれらを消すための新たな手法を見つけねばならない。そのうちのひとつは、あのスウェーデンボリの反抗的な弟子、ウィリアム・ブレイクの神話学の研究である。これは複雑であるというよりも、複合的だな、とわたしは思った。
 この試みやほかの試みは、みな無駄だった。すべてはシェイクスピアへとわたしを導いた。
 最後の望みをかけて、ただひとつの解決にすがりついた――希望と勇気をわたしに与える、厳格で、広大な音楽――バッハに。

1924年の追記――いまやわたしは市井の人である。目覚めているとき、わたしはエメリタス・ヘルマン・ゾーゲル博士である。わたしはふだん、カードのカタログや学問的な瑣事を編纂して遊んでいるが、しかし夜明けごろ、わたしは時々感じる、これを夢見ているのはべつの者だと。午後には時折、不安な気持ちにさせられる、小さくて、すぐに去っていく、おそらくは本物の思い出のために。

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底本――"Collected Fictions Jorge Luis Borges", Penguin Books, 1998, Translated to English by Andrew Hurley. 

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