小説「自販機前」

ペプシコーラの大きい缶が100円で売っている自販機がある。

家を出てから池沿いに進み、無人の交番の交差点を曲がって坂を下りていく。国道から住宅街を抜けていくこの坂は、朝から夕方にかけては渋滞を作るほどに騒がしいのだが、夜は日付を跨ぐ頃になるとひっくり返したように静かになった。

横着してスリッパで出てきたものだから、足先に冷たい風が当たる。おおよそ半分は歩いてきたから、今更引き返そうともしない。しかし、寒い。せめて生地が厚めの靴下でも運良く履いていればマシだったのだが。同時に洗濯機の中に沈む一番厚手の靴下が思い出された。

コンビニが潰れて歯医者になって、評判の歯医者になった。その歯医者の外階段の下で自販機は輝いている。スウェットのポケットから折り畳みの財布を出す。小銭入れを開けて、自販機の明かりを当てる。ギザギザの銀の淵が何枚か見つかる。

100円玉を手に取って自販機に入れる。そのまま指をペプシのボタンに持っていこうとしたところで後方からバサバサと何かが擦れる音がした。反射的に振り返ると揺れる庭木の手前で女が立っていた。尋常ならざる挙動で辺りを伺う女の顔はくるくると辺りを向いた。そうして目が合ってしまった。暗くて目は見えないが、顔がこちらに向いて止まったのだ。

街灯の明かりは微かにしか届かず、背中から漏れる自販機の明かりが辛うじて女の様相を照らした。痩せ型で、毛穴を閉める寒気には頼りない薄着であった。そうして体の前で奇妙に両腕を作っていた。見えこそはしなかったが、その体勢は女が赤子を抱いているものと確信させた。

目が合ってからしばらく、依然として両者は固まっていた。なんとも動きようがなかった。女の動かないのがこちらを固まらせ、こちらの動かないのが女を固まらせた。
ところが、未だ決済至らないのに耐えかねた自販機が100円玉を釣り銭の口にチャリンと吐き出した。

その音に跳ねた女は風となって走りだす。柔らかい肌がアスファルトを蹴る音が通りにひっつくように響く。音は下りながら小さくなっていった。
おおよそ姿が見えなくなった頃に、女が立っていた後ろの家の戸が開く音がした。出てきた男は自販機の前で呆けているこちらに一瞥もくれず慌ただしく車に乗り込んだ。車は坂を上っていった。


部屋でペプシを飲んでいると遠くでパトカーのサイレンが聞こえてきた。そういえば、釣り銭口に100円玉を忘れてきてしまっている。明日通る時に一応見てみよう。残ってはいないだろうが。

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