見出し画像

日本人は無宗教ではない理由

オーストラリア人と仕事をするようになってから、時々日本のことについて質問されるようになった。
彼女も文化的な違いに戸惑うことが多いようで、私も時々説明に窮することがあった。そんな中で表題に関係する質問が出た。

キリスト教では神がいて、それを崇めて祈りながら生きていくけど、一般的な日本人にそういうものはないの?

彼女の言う一般的な日本人とは、
お墓参りもして、初詣も行って、クリスマスも楽しんで、ハロウィンでミニスカサンタをやるような日本人のことで、特定の宗教を信仰しない人のことだろう。たいがいの日本人がこれで、それに違和感も持っていない人が大半となる。

キリスト教などにおける唯一神とは

しかし、これは海外の人からすると異質なものなのだ。
キリスト教やイスラム教では「唯一の神」がいて、他に神はいない。そして、この神に導かれることによって天の国へ行けることになっている。救いをもたらすのもこの神なので、日々の生活の中では神を意識せずには生きられない。

それ故に人々は祈り、神のことを考える。

唯一神を信仰する文化圏の人にとっては、常に絶対的な神がいるので、神の説得力が余計に増すわけだ。アメリカでは進化論を信じず、聖書の記述を信じている人が一定数いる。理解し難いが彼らにとっての神は私たちの神以上に神なのだ。

日本人の奇妙な宗教観

一方、日本人は唯一の神を持たない。逆に日本人に広まった神道の考え方では多神教の概念がある。

八百万の神、ようは無限に神様はいるのだ。
もちろん、私たちは神道に傾倒しているわけではない。しかし、この考え方を受け入れているところがある。
トイレの神様という曲が流行った。いつだったっけ。

しかし、日本人はお寺に行って仏様の概念も受け入れるし、教会で結婚式も挙げる。親父の前でで誓いすらたててしまえるのだ。キリスト教の人は父なる神に誓うのだろうが、日本人は誰に誓っている?もちろん神様だ。

これは矛盾していて滑稽な様に見えるが実は矛盾していない。私たちにとっては仏様もヤハウェも八百万の神のひとつ。多神教の概念のもとでは唯一神すら集団に組み込まれてしまうのだ。
江戸時代にザビエルの布教が失敗に終わった理由もこれにあるとされている。信仰に対するベースが違いすぎる。

日本人は無宗教ではない

定型の信仰スタイルを持たない私たちは時に理解され難く、妙な誤解を受けやすい。日本人が簡単に自分のことを「無宗教(no religion)」と紹介してしまうからだ。

日本人の言う無宗教とは特定の宗教を強く信仰していない状態であるが、外国人の認識は少し異なる。
神などいないので好き放題にやってもいいと考える人のことを無宗教と捉えるのだ。

私たちは別に好き放題やりたいと思っていない。ただ、特定の神に心を寄せることがないだけだ。

例えば、通常の精神状態にある人間がなんの考えもなくお地蔵さんを蹴るだろうか、花壇の花をむしるだろうか、する人はいても、滅多なことでは無い。

私たちの持つ独特な信仰心は「超俯瞰的な曖昧神」と表現できるかもしれない。

私たちは様々な文化や宗教に同時に触れながらそれらを否定しない。そのうちにボンヤリと超然的な存在をイメージするようになる。
宗教ではこれが神様仏様にあたるものだが、私たちはそれほど具体的にそれをイメージできない。なぜなら肉付けするようなエピソードや信仰がないので、具体的な絵が思い浮かべられないからだ。

ただ、こうした超然的なイメージを抱いているから、結婚式では誓うし、仕事で大きな失敗をした時には神様に祈ることができるのだ。これは作り出したイメージにどこかから見られているような感覚でもある。
誰も見ていないのに悪いことをしてしまった時に、
無性に罪悪感にさいなまれるのもこれが関係している。

こういった点を踏まえれば、日本人は無宗教ではなく、
「形容し難いイメージに信仰をおく」
なかなか珍しい宗教形態をとっているのかもしれない。

人の目が気になる理由

オーストラリア人にこの感覚を説明すると彼女は驚きを見せた。それはひとつの発見に繋がっていたからだ。
日本に来てから彼女は妙に人から見られるようになった。もちろん、人種が違うことは関係しているのだろうが、これはオーストラリアにはない感覚なんだそうだ。

ここで先程の超然的なイメージが思い出される。

「日本人は何かのイメージに見られてる意識があるから、余計に人のことが気になるんじゃないかしら」

なるほど。それを言われて私も驚いた。

特定の宗教を信仰する人にとって、「対話」とは神との対話になる。神に自らの行いを告白することは信仰になる。

しかし、特定の宗教を信仰せず、不明瞭なイメージしか持ち合わせていないで生きているとこの対話は生まれない。人に言い辛い悩みを抱えた時にそれを告白する手段が持てない。
また、価値基準も揺らぎやすい。人からどう見られているのか気になり出すのは、自己の価値が人から見られた際に決まると考えてしまうからだ。

なにか超然的なものというには他人のことなのかもしれない。私がこうやって今もネットに意志を載せようとする時、他人の怒りを買ってしまうかもしれないという一抹の恐れを抱いている。目に見えない彼らはある種の神と表現できるのかもしれない。

宗教を信仰することも、信仰しないことも、人の目を気にすることにも決定的な善悪はなく、他人が干渉できる部分では無い。しかし、いま自分が何を恐れて、何を信じたくて生きているのかは考えなければならないのかもしれない。

おわりんちょ。

この記事が参加している募集

#多様性を考える

27,917件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?