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私の死にがい

朝井リョウの「死にがいを求めて生きているの」を読んだ。

 私の死にがいとは何だろうか。死ぬ間際に、これはよくやったと思うことはあるのだろうか。充足感を得るのか、それとも後悔の念ばかりなのか。

 日常生活では、「何のために生きるのか」ということは考えなくても、ある程度回っていくものだと思う。しかし、人間は目的意識を持って行動することが好きなのではないだろうか。目標を持って仕事に取り組むとか、推しのためなら頑張れるとか、老後の生活のために投資しようとか。何のために生きるかを考えることは、自身のアイデンティティを見つめ直すことでもあると思う。何を幸せと思うか、何を大切にしたいのか。

 なぜ私は私なのか。哲学のようだが、幼い頃から考えることがあった。時々、私という入れ物の中の私の意識、を強烈に感じる瞬間がある。今目の前にいる人の入れ物の中にもその人の意識がある。そう思うととても不思議な感覚になる。たまたま私は私だったけど、私じゃない可能性も十分あったのでは?もし私の意識が目の前の人の入れ物に移ったら?‥ここまで考えるといつも混乱してきて、考えるのをやめる。

 このような感覚を持っていたせいか、死後の世界や神様が見ている、といった類の話は信じていた。人は死んだら閻魔大王様のところに行って、順番に並んで、歩んできた人生について話して、天国行きか地獄行きか決まる。人生で悪いことをしたり、閻魔大王様の前で嘘をついたりしたら、地獄に落ちてしまう。これを思い出したのは、「ブラッシュアップライフ」というドラマを観たからだ。ドラマでは、亡くなった後の主人公が真っ白な部屋にやってきて、受付のように待機していたバカリズムに『来世はオオアリクイです』などと言われる。人生の中で徳を積むと、来世が少しグレードアップしていく。共通しているのは、何かのために役に立ったか、力を尽くしたかということが人生の真価として問われるということだ。 

 ただ、人生の真価なんてものは死んでみないと分からない。おそらく、人生に「何のために」というテーマはあってもなくてもいい。また時間と共に新しいテーマが生まれても、これまでのテーマがガラリと変わってもいい。自分が幸せだと思う方を選べばいい。できれば正直に、人に優しく(徳を積んで)過ごせばいい。アンパンマンマーチを聞いて育ったことを考えると甘ったるい考えかもしれないが(歌詞は皆さんご存知だと思うので、ここでは触れない)。

 私は死んだ後、閻魔大王様の前で、真っ白な部屋のバカリズムの前で、何を語るだろう。

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