8割の私小説


猫、安いビスケットのにおいがする。
腕から猫をよけてから起き上がり、歯磨きをする。

小説を読む人は、書かれていない事は起きていない事と思うようだが、今回歯磨きがだるすぎて40分程ベッドでだらだらしている。

道は真ん中を行く者がいるから逸れる、という事象が発生する。
学級委員がいるからサボりを享受出来る生徒がいる。委員長の費用対効果が高くない事は大人になってから知った。マンガで読んだ。

27分経っていた。ぐちゅぐちゅぺっしてまだ歯がある事を確認する。毎回このペースだと40までに歯を磨ききってしまう。39の夏なんかはもう何を磨いているのか自分でも訳が分からないだろう。


優しさについて考えていると、時間が経つのが早い。
宇宙に行って帰ってくると地球上では10倍の時間が経過しているらしい。もしかして優しさは宇宙なのかもしれない。べろを磨き忘れた。もう家を出ている。今日はディープキスをする予定は無いのでまぁよしとしよう。

花は健気だ。でも一輪一輪を労う時間は無い。手近な花だけを労うが、それで良いのか分からない。こういう相談を誰にすればいいのかも分からない。友達は皆優しいが、この相談は口に出すとだいぶニュアンスが崩れてしまう話の一つだ。


ニュアンスを保つのは難しい。この話をするには、自分の声質では少しウソになってしまうな~ということが往々にしてある。女性から聞こえるそれと男性から聞こえるそれでもまた違う。何かの比喩のように聞こえてしまうのも全然意図と違う。ただ花にもらったエネルギーを花に還すのは然るべきというだけなのだが。


そう、皆にも花びらを食べて欲しい。
幼少期、極貧過ぎて花を主食としていた時期がある。キモ田キモ男の大好物とは?の答えにあたるファンシーさだが、それは自分の2001年のリアルだった。
大きな花びらは新鮮なほうれん草みたいに植物でありながら噛みごたえがブリッとしててとっても満足感の高い逸品。
小さくて一枚で一つの花ですみたいな花は薄くてシャクシャクしてるのに、むしろ肉厚なものより瑞々しく喉がなった。花粉は不味い。

村田沙耶香さんの本で、都会に生えてる野草をバレないよう食べる短編があって、(おどろおどろしくて都会の人が見ると奇妙だろうけど、かなりグルメ小説としても読んでしまえる)それを読むたび花弁の歯触りを思い出す。

村田さんの本はめちゃくちゃ普通の人が読んでも変な小説で片付ける事も出来るし、本当に変だから変な人が読んでも共感できる。作られた変さじゃないから代弁者の様に近くてこの身を預けてしまえる存在で、とにかく会いたくない。

この好きを、仲良くなれる希望を捨ててでも守りたい。
だから若手のアイドルや芸人と関係を持つファンの人達は凄いと思う。希望が好きを上回れたのは凄い。めちゃくちゃ凄い。壊れることも厭わない。強い人間だと誇って欲しい。


携帯に連絡。よく奢ってくれる子からご飯のお誘い。友達からの誘いがなければまたいつ花を食べてもおかしくない生活をしている。というか、普通に美味しいし食べたいとも思っている。
でも、記憶補正で美味しいだけで、あの頃よりも不味かったらやっぱりちょっと寂しいかもしれない。美味しかったら美味しかったで、成長という点でかなり悲しいとも思う。
花を食べずに居られる理由が倫理観ではなく主観のみというのも変と思われる要因の一つなのだろう、それを自覚出来る人間だという事が少し嬉しい。


家に着く。朝にご飯をあげ忘れてて腹ペコになった猫が激怒している。やっぱり書いてない事はやっていなかったのだ。逆叙述トリック~、と今日はじめての声を発する。いや、もしかしたら、ここは小説の中なのかもしれない。大変だ。モノローグが長すぎる、と文字のガチ勢に怒られてしまう。映画化されたら監督の好きなように改変されてしまうタイプの作品だから、映像のガチ勢にも怒られること必至だ。自分の手の範囲で作ったものを操作できるのは恵まれている。自分の作ったものを任せられる人にも憧れる。信用の度合いと己の優しさは正比例する。


口臭対策の為べろを磨いているだけなのに先程の思考により変な意味が頭を駆け抜ける。言葉にすることは考えを創ること。あり得ないと言葉にすることでフリになってしまうのは困る。みんな何も考えないで生きているのは楽だからと思っていたが、むしろそれの方が都合が良いからなのかもしれない。怠けと思ってムカついていたが、考えた上での結論が怠けだった可能性を次回から配慮しよう。また少しだけ優しさを肉付け出来た気がする。気分によっては全然ムカつくだろうけど。だがそれも考慮しよう。優しい人は自分にも優しいらしい。


猫にご飯をあげる。背中に登ってきた。可愛いを生業としている。その報酬として当たり前にご飯を要求している。そのメンタリティが好きだ。猫は会話の齟齬が無いからずっと好きを守れる。花も食べなければ味の好きは守れるし育てなければ見た目の好きも守れる。

現時点、人を好きになる時、手を好きになるのが一番コスパが良いと考えている。
性格や顔は変わるし、しゃべり方や癖は記憶喪失になったら終わり。その点、手は変わりづらいし記憶に左右されない。老けてもおばちゃんの手の甲の皮膚をビョ~ンと伸ばすのが好きだったからむしろ楽しみでもある。最悪、なんかの間違いで手だけになっても愛せるし、なんと2コもある。(スペア??)

まだ若いから、愛することが手段ではなく目的になっている。これを理解してない人はどこかの段階で"はっ、愛することは目的ではなくて手段なんだわ!"って気付くと思うけど、知ってるから気付けない。どうやってこの価値観を獲得していくのか実に見物ではある。

そうこうしているうちにもう集合時間に4分程遅刻している。また怒られてしまう。背中をバシッとやるあの綺麗な手を思い浮かべる。

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