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【鬼凪座暗躍記】-五悪趣面-『其の五』

 掌酒族さかびとぞく老爺ろうや三界薬師さんがいくすし爾圭じけい】は、胸のつかえに咳きこみ、石塔の影へと身をひそめていた。

 濃霧のせいで、視界はまったく覚束ないが、石燈篭の薄明が道標となり、ここは石段登り口付近の馬の背だろうと、己の居所に見当をつけていた。

 他の四人は、どこへ逃げたものか。老年の弱った足腰では、彼らのように俊敏な遁走は叶わない。喉の渇きにあえぎつつ、せめて気付けの酒があればと、考えていた爾圭。

 そんな老爺の耳へ、不意に間近から、小川のせせらぎが聞こえて来た。

 爾圭は重い腰を上げ、水音みおとの方角へと歩き出した。

「この年寄りに……山道は難儀なものじゃ! 誰の仕業にせよ性質たちが悪すぎるわい! 十年も前の件を、またぞろ持ち出すなぞ……それともわしは、酔狂な夢幻でも見とるのか?」

 独りつぶやく爾圭は、ようやく清流を探し当て、膝を折り、澄んだ山水をすくい取って呑んだ。すると爾圭は刮目かつもくし、さらに一口二口呑み、ついには頭を突っこんでガブガブ呑み続けた。清流は不可思議なことに、絶品の酒気を孕んでいたのだ。

 頭を上げた爾圭は、口をぬぐい、あらためて酒川の透き通った水をながめた。

「驚いたぞ! これはまさに、鬼去酒きこしゅの味! しかも、こんな美酒は今まで味わったことがない! やはり儂は夢を見ているのかもしれんのう! いや、斯様な夢ならば、醒めて欲しくないものじゃ……恭悦至極! 大いに結構!」

 老爺は夢中になって、飽くことなく酒川の流れに咽を鳴らした。だがその時、爾圭は急に異変を感じ、清流から顔を出した。白髭からしたたる雫が、血のように赤い。

 いや、酒川が赤いのだ。

 なんと老爺が、夢中で呑み続けた清水は、いつの間にか不気味な鮮血へと変じていた。

 その様子は、まるで血脈だ。爾圭は戦慄し、悪寒に震え、血酒をゲェゲェと吐き出した。

「おげぇえっ……ぐふっ! た、頼むから、これ以上、か弱い年寄りをいじめるのは、やめてくれぇぇ! 十年前のことは、すでに決着がついとるはずじゃあ! 儂も社会的な制裁は受けた! 罪を償ったんじゃあ! なのに、うぐっ……今更、むし返して、この儂に、一体どうしろというんじゃあぁぁあ!」

 爾圭は苦しげにうめきながら、胸をつかんで嗚咽した。

 中央劫裁判官所ちゅうおうごうさいはんがんしょの、典薬方てんやくがた勤務だった老医師には、十年前、悪癖の酒毒が祟り、救えるはずの命を無駄死にさせた経緯があった。

「儂はあの若者を助けたかった! 罪人とはいえ重傷を負って苦しむ男を、救ってやりたかった! 嘘偽りのない至心じゃ! 結局、死なせてしまったことに対しては、深く反省し、心底悔やんで来たのじゃ! あの時の儂には、どうしようもなかったんじゃよぉ!」

 老爺はドクドクと流れる血脈川を見つめ、唇を噛みしめ、過去の罪業を吐露し始めた。

 赤い酒毒にてられたせいか、熱を孕んで靄がかる意識が、彼を刑場へと手招いたのだ。


――静かで、とても寒い夜じゃった……十年前、儂が宿直とのい不寝番ふしんばんで、弟子を帰らせた頃には、窓の外、雪がチラついておった。当事、儂の体は酒毒に侵され始め、時には手先が震え、勤務日誌を綴る筆さえ持てぬ場合があった。しかし命の洗濯か……年の瀬を迎えた囚人どもは一様に大人しく、穏やかな数日間が続いていた。これが、かえって油断を招いてしまったのじゃ。儂は寒さに堪えきれず、仮眠を取るため寝酒をあおってしまった……本来、牢屋敷宿直詰所ろうやしきとのいつめしょへの酒肴持ち込みは禁じられとったが、儂には欠かせぬ常備薬じゃ。この夜もこっそりと持ちこんで……牢役人の目を盗んではチビチビ呑み始めた。すると一口が二口。いや、まだまだイケる、もう三口……と、抑制が利かず、ついつい深酒をしていた。あの若者が、囚人同士のいさかいで脇腹を刺され、慌ただしく宿直詰所の治療院に担ぎこまれて来たのは、そんな不都合な折じゃった。若者は幾本もの木片に貫かれたまま、おびただしい出血で苦痛にあえぎ、危険な状態じゃった! 儂は牢役人に酒気を悟られぬよう、術式用の口巾こうきんを当て、千鳥足で治療院に入った……だが、典薬方として三十年も勤めた実績がある儂になら、たやすい処置じゃと己を過信してしまった! それが、すべてのまちがいだったのじゃ! 酒気で朦朧とする頭に喝を入れ、必死に解体刀をにぎったが……手順を誤り、往路血脈をしかと結索する前に、深々刺さった木片の一部を引き抜いてしまった! 驚くほどの血量が噴き上がり、儂の顔は赤く染まった! 牢役人は驚倒して、右牢詰典薬方うろうづめてんやくがたへ応援を呼びに走った! 儂はなんとか出血を食い止めようと、結索帯に手を伸ばした……ところが若者は激痛のあまり暴れ出し、ついには拘束寝具から手足をもいで、手がつけられぬ状態になってしまったのじゃ! 若者は、駆けつけた右牢典薬医に応急処置をほどこされたが、甲斐もなく……その夜の内に息絶えた! 儂の咎じゃ……痛いほど、それは判っとる! だが儂は酒毒のすえの施術失敗が露見し、典薬方を解任された挙句、世間からは白眼視され、今や尾羽打おはうち枯らした侘しい老後を送っとる! もう充分すぎるほど、罪の償いはしてきたつもりじゃ! なのに、まだ足りぬというか! 故意に死なせたわけでない! あの若者には災難じゃったが、十年経っても許せぬ罪咎か!――


『貴様に自省の心などない、三界薬師の爾圭』

 老爺は突如、頭の中で反響した獣声じゅうせいに震撼、汗だくの全身を痙攣させた。再び悪心がこみ上げ、爾圭は吐血を繰り返す。

 しかし、赤い酒川から浮上した白面はくめんが、爾圭の口へ容赦なく鮮血を噴出したのだ。血生臭い酒気を注がれた爾圭は、呼吸もできず四苦八苦。

 顔をそむけようにも、体が強張って、まったく動かない。

『己の身を滅ぼすほど酒毒に浸り……取り返しのつかぬ過ちを犯しても尚、酒浸りの堕落しきった日々を過ごして来た爾圭! 挙句の果て、往年の腕を頼りに、訪れた傷病人に対し、後悔反省の色なく、またしても杜撰ずさんな施術を行い、死に到らしめたであろう! そんな貴様は、五悪趣ごあくしゅ飲酒おんじゅ】の鬼面が相応の人非人にんぴにんだ! お前が啜って来たのは、酒でなく人の生血! さぁ、好きなだけ呑むがよい!』

 爾圭に嘲罵を浴びせ、血飛沫ちしぶき上げて酒川から飛び出した劉蝉面りゅうぜんめんは、一瞬で禍々しい鬼面へと変貌。腰砕けの老医師へ覆いかぶさり、ピタリと密着した。

 これにて、爾圭は血まみれの鬼畜と化した。

 血毒酒ちどくざけに犯され発狂した爾圭は……深紅の肌、腫れぼったい眇目すがめ、天狗鼻、とがった吸い口、眉間の一角……醜悪な【飲酒鬼面】に似合う耳障りな莫迦嗤ばかわらいを放ち、猩々舞しょうじょうまいを踊りながら、血染めの酒川へと自ら身を投じたのだ。

「ひいぃぃひっひっひっ! ぎゃあははぁぁあっ!」


ー続ー

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