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【鬼凪座暗躍記】-五悪趣面-『其の参』

楊匡隼ようきょうじゅん】は走り疲れた濃霧の中、かすかな悲鳴を聞いた気がして、思わず身をすくめた。

「なぜだ! 十年も経って、今更……俺がなぜ、こんな目に遭わねばならぬのだぁあ!」

 劫貴族こうきぞくの判官は、疲労困憊で地べたに伏し、顔を覆って慟哭した。

 最早、高家こうけ出身者の自尊心など、微塵も感じられぬ弱々しさだ。

崔劉蝉さいりゅうぜん……俺は、お前がうらやましかった! お前の持つ人徳、地位と名誉……そしてなにより、美貌の妻女【凛華りんか】殿が、欲しくて、欲しくて、たまらなかった! だから俺は……」



 劉蝉には当時、二つちがいで劫貴族出身の妻女がいた。

 二十二歳の若妻は、艶めく黒髪に透けるような白肌が端整な、絶世の美女であった。

 匡隼と凛華の父に親交があったため、将来は二人をめあわせようなどと、男親同士の約束まで持たれた幼馴染である。匡隼は愛しい娘との婚約話に有頂天だった。

 だが肝心の凛華は、奉公に上がった劫初内ごうしょだいで崔劉蝉と知り合い、結局……彼女が夫に選んだのは劉蝉だった。

 野心家で雄々しい匡隼より、繊細で生真面目な劉蝉の方が、大人しい凛華と気心が通じたのだ。匡隼は、凛華への未練で自暴自棄になり、一時、荒れ狂った。

 見かねた父の口添えで、判官所に勤め、家督も継ぎ、妻女もめとった。

 凛華への思慕を断ち切ろうと、職務に尽力し、気づけば一角ひとかどの人物にまで出世していた。

 若年ながら、中央劫裁判官所ちゅうおうごうさいはんがんしょの上位右判官へ、大抜擢されたのだ。

 それでも匡隼の心は、どこか殺伐として空しかった。埋まらぬ不足感。

 劉蝉も、国政にたずさわる重役へと就任し、地位に大差はつけられなかった。

 やがて凛華が、劉蝉の第一子を儲けたと聞いて、匡隼の心はまたも荒み始めた。

 さらに五年を経ても、凛華に対する匡隼の、異常な執着心は消えなかった。

「凛華は、俺のものになるはずだったのに……奴が横から、かっさらって往きやがった! 畜生っ! 奴さえいなければ……消えてくれたらと、考えることはいつもそればかりだった! 妻と寝所にいる時でさえ、この女が凛華だったらと、考えずにはいられないんだ! だが当の凛華は……毎夜、奴と同衾どうきんしている! 心臓が、火につつまれたような嫉妬心に、俺はさいなまれ続けた! もう我慢の限界だった! 十年前、あの事件が起きていなければ、俺は多分……いや、きっと発狂していただろう!」

 匡隼は乱髪の隙間から、陰惨な瞳をのぞかせ、うに封じた過去帳を紐解き始めた。


――十年前の初秋、侘しい日々を送っていた俺の人生に、大きな転機が訪れた……あの日のことは、今でもはっきりと覚えている。俺が勤める中央劫裁判官所に、奴が……崔劉蝉が引き出された日のことだ……丁度、収穫祈願の田楽でんがくがにぎにぎしく、狛笛こまぶえ鞨鼓かっこの音色が評定庭にまで聞こえていたな……国賊級の疑獄事件で、陥落した恋敵の憐れな姿に、俺は嘲笑を浴びせかけてやりたかったよ! 上位右判官の俺が奴を取り調べた上で、罪科を裁定するんだ! つまり、奴を生かすも殺すも俺次第……夫の無実を信じ、牢屋敷へ訪ねて来た凛華の耳にも、同じことを吹きこんだのさ! 人妻となった凛華は、以前にも増して美しく、魅力的な大人の女に変わっていた……俺の中でくすぶっていた恋情が、一気に燃え上がるのを最早、俺は消し止められなかった! この機を逃したら生涯、凛華を手に入れることは叶わないだろう! 劉蝉の件で、すっかり憔悴しきっている今の凛華なら……きっと、俺の云いなりになるはず! だから俺は幼馴染の気安さをも利用し、劉蝉の事件で内密に話があると、凛華を別宅に呼びつけた! そして……劉蝉の無罪を餌に、俺は凛華を慰み者にしたのだ! 夢のような一夜だった……しかし同時に、これまで以上の苦悶が俺の胸をにぎり潰したんだ! 凛華は、俺を軽蔑した眼差しで、じっと睨んでいた! 愛する夫を守るため、己の身を犠牲にした女を……俺はもてあそんだのだ! 恥辱……俺の自尊心はズタズタにされた! 俺に、こんな思いをさせたのは、すべて崔劉蝉! 妬みや逆恨みであることは、重々承知していた……だが奴への憎悪が止められなかった! 俺はこらしょうのない男だ……凛華が、捨身してまで願った約束を、俺は簡単に破ってしまった! 結果……『崔劉蝉、国家の重責を担う六官巡察使ろくかんじゅんさつしの役職にありながら、先に不正で更迭された宮内大臣くないだいじん光禄王こうろくおうと謀り、国政に関わる秘事を間諜行為のすえに漏洩、巨額の賄賂を受け取った罪業は、一命を以って償うべきである』……と、評定庭でうなだれる奴に向け、俺は死罪の裁定を下した! 凛華はその夜、自害した……後日、劉蝉も、三下奴さんしたやっことの些細な諍いから、牢内で刺し殺されたと聞いた……俺は、凛華にはすまないことをしたと、今でも後悔している! 凛華が祟って出るなら、俺は彼女に命を奉げてもいい! けれど相手が劉蝉で、十年経った今、こんな風に恨みがましく現れたところで、俺は奴に許しを乞う気など、断じてない……断じてだ!――


『貴様の卑しい心根は死罪に値する、楊匡隼』

 夜霧の奥から唐突に投げかけられた裁定が、鬼畜判官の欲心へ、ドスンと鉄槌を下した。

 そして、うずくまる匡隼の目前に、崔劉蝉の面で素顔を伏せた、妖しい巡礼者が出現したのだ。匡隼は目をむき、漂う鬼火を薙ぎ払っては、面妖な巡礼者へと追いすがる。

 狂人さながらの奇声を放つ匡隼は、偃月刀えんげつとうで枝葉を斬り裂き、宵闇に浮沈する白面はくめん巡礼者と、堂々巡りを繰り返し……木の根に足を取られて転倒した。

『あなたが穢したものは、私の貞操だけではありません。愛する夫・劉蝉の名誉を辱め、私たち夫婦の幸福を貪り、踏みにじったのです。私は決してあなたを許しません。淫猥な欲心にまみれたあなたの顔には、五悪趣ごあくしゅ邪淫じゃいん】の鬼面が、本当によくお似合いですこと』

 玲瓏れいろうな女声がつむぐ怨言に驚愕し、顔を上げた匡隼。

 劉蝉面を外した巡礼者の素顔に、息が止まった。

 森陰に佇む麗艶な若い女は、彼が自害に追いこんだ凛華だったのだ。

 しかも、彼女が掲げた銅鏡に映る、醜悪な鬼面……大小四本の角、赤く充血した蛇眼、骨張ったいびつな輪郭、だらりと長い舌、ヌメヌメ光る鱗肌……その【邪淫鬼面】こそ、己の浅ましい素顔だと知り、匡隼の理性を緊縛していた糸が、頭の中でプツリと切れてしまった。

 完全に忘我し、狂態を晒す匡隼は、凄絶な雄叫びを上げ、泥梨ないりをのた打ち回った。

「凛華ぁぁぁ! やめろぉぉぉ! 俺を見るなぁぁぁ! 許してくれぇぇぇぇえっ!」

ー続ー

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