転校生と最後の役割
転校生だった。
「吉村です。よろしくお願いします」
低く、大人びた声の底には、わずかに怯えるような震えが含まれていた。
教壇に立つ担任の女性教師、前田先生の横にいるのは、綺麗なストレートの黒髪を背中まで伸ばした女子だ。くっきりとした二重まぶたで瞳が大きく、鼻筋も通っていて、唇は少し横に長い。
僕は生まれて初めて美人を見たと感じ、思わず見惚れてしまった。
自己紹介が終わると、前田先生は彼女の席を指定する。
空いている席は窓側の一番後ろだけである。当然そこに座るものだとクラス全員が思っていた。
ところが、
「えーと、席は、と……秋田くんの後ろの大滝くんは窓側の空いてる席に移って。大滝くんの席に吉村さん座ってね」
つまり、空いてる席に彼女を座らせず、僕の後ろの男子生徒を窓側の空いてる席に、そして転校生の吉村さんを僕の真後ろに座らせたのだ。
僕はその意図がわからなかったがともかく、彼女は椅子を引く音も控え目に、静かに着席した。
チラと視線を向けると、彼女はよろしくの言葉さえ無く、ただジッと黒板を見ている。
ひとまず落ち着いたところで、前田先生が言った。
「吉村さんは、みなさんより一つ年上のお姉さんです。仲良くしてくださいね」
その言葉に、クラスメイトたちは一瞬どよめいた後、一斉に好奇の眼差しを向けた。
真後ろを振り返って見るのは失礼だと思った僕は、前を向いたまま。だから、彼女に向けられた全員の顔が僕にも見えた。大量の視線を受けた彼女の気持ちが理解できる。
そして授業合間の休み時間。
同い年の転校生だったなら、席の周りにクラスメイトが集まって質問攻めのパターンだが、彼女の場合は違っていた。
誰も寄り付かず、ただコソコソと耳打ちするばかり。
「なんで年上?」
「やばいモンダイ起こして学校行けなかったとか」
「勉強についていけなかったのかな?」
「ヤダ、落第?」
そんな言葉が切れぎれに聞こえるたび、吉村さんは俯き、表情を曇らせた。
自己紹介のときの震え声は、このような反応を想定してのことだったのだろうと、僕は気がついた。
ヒソヒソさえずる声をかき消すチャイムが鳴ると、授業が始まる。
ところが、背後からは教科書のページをめくる音も、ノートを開く音も聞こえない。
ただ、彼女から発せられる湿ったオーラが僕の背中に投げかけられているようで、僕はジッとしていられなかった。
恐る恐る振り向くと、そこにはマッサラの机。
「あのさ、教科書は?」
「まだ無いの」
低い、落ち着いた声が返ってくる。
僕は彼女の隣の席の女生徒、関さんに言った。
「吉村さん教科書無いってよ」
「……」
「おまえ、教科書見せてやれば?」
「……」
「なんで無視? 酔っ払ってるのか」(もちろん、酒など飲むはずがないが、関さんは某有名造り酒屋の娘なので、僕はそう言った)
関さんは、年上の転校生に対して様子見を決め込んでいる。
周囲の反応を見て、自分の行動を決める、僕のクラスの女子はそういうタイプが多い。目よりも耳を信じるヤカラである。
僕は自分の教科書を吉村さんに渡して授業を受けた。
たまたま得意な科目だったので問題は無い。教師より僕の方が知識があると思っていたくらいだ。
さて、次の授業でも教科書を貸そうとすると、吉村さんは例の低い声で、僕に言う。
「わたしに関わると、イヤな思いするわ。きっと」
僕までクラスのノケ者にされる、と気を使っているのだ。しかし、そんな心配とは無縁だった僕は、
「気にしないけど。べっつに」
と、答える。
「そう」
それだけ言い、吉村さんは白く細い指で、教科書を受け取った。
翌日は消しゴムを貸し、その次の日にはシャープペンシルの芯。見かけによらず、彼女は少しおっちょこちょいであるらしい。
休憩時間に話すうち、彼女は病気で長く入院していた事がわかった。それに、冗談には反応良く笑顔を返す、本来明るい性格であることも理解できた。
※※※
翌週。
「ナニこの状況……?」
朝、教室に入った僕は愕然とした。
なんと、吉村さんが他の女子たちとキャイキャイ仲良く話をしているのだ。
先週は無視を決め込んでいた関さんが、僕のところにやってきて、
「秋田、吉村さんのこと、もうあたしたちで大丈夫だから」と、言う。
少し焦っていた僕はつい、イヤミを言ってしまう。
「ったく、おまえ、一週間遅せえよ」
「あはは、怒んないでよ」
先週、僕とのやりとりで垣間みせた吉村さんの明るさが、女子たちの心を開いたのだった。
吉村さんを見ると、暗い表情は消えて、先週とは別人のように笑顔を振りまいている。
教室に入ってきた前田先生はその様子を見て、シテヤッタリという顔をしている。その表情を見て、僕はやっと前田先生の謀略に気がついて、思わず脱力してしまった。
(ったく、クラス委員長より僕の方が適任ってワケ……まぁ、しょうがないか。あとくされないしな)
ふと、満面に笑顔をたたえた吉村さんと目が合った。僕はホッとして微笑みを返す。
そしてまた、吉村さんは女の子同士のおしゃべりに戻ってゆく。
男はこの程度で、寂しさなど感じないものだ。
彼女と視線を交わしたのは、そのときが最後だったと思う。
なぜなら、その週末には、僕が『転校生』になっていて、彼女に会うことは二度と無かったからである。
最後の日に泣いてくれた彼女の涙は、僕の大切な宝物として今でも、残っている。
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