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驟雨の挺進隊 -本多挺進隊インパール戦記-

昭和十九年三月下旬
ビルマ・インド国境付近

「おいっ、足を踏むなっ!」
「すみませんっ……」
 そのようなやりとりがそこかしこで交わされている。

 怒鳴っているのは第十五師団(部隊通称:祭兵団・以下『祭』)配下の歩兵第六十連隊(以下『松村連隊』)の兵士。それを急ぎ追い越そうとして怒鳴られているのは、同じ『祭』の本多挺進隊である。
 足を踏んでしまうのは、無論、道が狭いためである。自動車などは通れないので装備は馬や牛に背負わせるか自分で背負っている。よって兵士一人当たりの装備は60kgにも達していた。

 挺進隊兵士の謝る声は、折からの驟雨にかき消され、とぎれとぎれに聞こえている。
「早いな、雨が……」
 雨期の到来にはまだ早い。それにも関わらず降り始めた雨に、弱冠二十五歳の新任指揮官、本多大尉は不安げな瞳を空に向けた。(この地域は世界でも有数の豪雨地帯だが、加えてこの年は30年ぶりの大雨だった)

 豪雨の中渡河するインパール作戦中の日本軍(おそらく『烈』)


 本多挺進隊(本多大尉の通常職務は大隊長。『祭』着任前は陸士の区隊長でかなり優秀だった。ちなみに前任者の階級は少佐)の任務は、全部隊の先頭に立って敵の前線を強行偵察し、戦闘しつつ目的地のインパールに続くイギリス・インド軍の補給路を遮断すること。そして英印軍が弱体化したところに、三方から進撃中の第十五師団(祭)、第三十三師団(烈)、第三十一師団(弓)がインパールに突入する作戦だ。

 そのためには本多挺進隊が最前線にいる必要があるのだが、予定は遅れに遅れ、今やっと本隊に追いついて、大休止中の松村連隊を追い抜こうとしているのだ。
 作戦期間の三週間はもう過ぎようとしているのに、インパール占領どころか近付くことさえ出来ない。そのような局面で最重要任務を任された、二十五歳青年の焦る胸中は察するに余りある。

「くそっ、挺進隊が松村連隊の後に続くようでは、どうしようもないっ」
 本多大尉は雨の中携帯天幕もかぶらず、生煮えの飯を飲み込むと休憩も無しで先へ先へと急いだ。

 挺進隊には重機関銃2、大隊砲1(九二式歩兵砲のこと。通常装備だと2門。大隊に割り当てられることが多いので”大隊砲”と呼ばれていた。兵隊さんにはいちばんおなじみの大砲である)、速射砲1(九四式三十七粍砲・対戦車用)、四一式山砲1(通常の呼称は”連隊砲”だが、このときは挺進隊に装備されたので兵器名称で記述した)が割り当てられていたが、行軍の速さを優先させるため運搬は早々に断念し、チンドウィン川渡河地点に置いてきている。さらに、4個ある中隊のうち、半数の2個中隊が渡河地点で師団予備隊として引き抜かれていた。

 そのような事情が重なり、貧弱な武装、半分の兵力で、アラカン山脈のジャングルをひたすら前進していたのだった。

 唯一、他の部隊に比べ充実していたのは、爆破装備だ。
 補給路の遮断には、インパール川にかかるミッション橋を爆破しなければならない。そのため、工兵小隊を伴っていた。しかし装備が重いためしばしば遅れ気味になり、挺進隊本隊はそれを掌握しながらの前進である。

 そのころ、挺進隊本隊の露払いとして前を行く高橋中隊は、少数の敵を発見していた。
 兵士が押し殺した声で報告する。
「中隊長殿、敵が見えます。兵力は1個分隊ほどです。幅広の帽子をかぶっているので、グルカ兵かと思われます」
 高橋中尉が見ると、浅黒い肌をした兵士がこちらをうかがっている。
「うむ、斥候のようだな。我々の行動を報告されては厄介だ。放ってはおけん。やるぞ」
 高橋中隊長は抜刀し、前に振ると、三八式歩兵銃が一斉に火を吹く。
 しかし、敵は素早い足取りでジャングルの木陰を利用しながら逃げて行った。

「逃がすなっ、第一小隊、俺に続けっ!」
 真っ先に駆けだした高橋中隊長に兵士が続く。敵は後ろも振り返らずに夢中で走っている。しかし足どりは日本兵より軽い。
 ジャングルの行軍で一番難儀なのは倒木である。しかし山岳民族であるグルカ兵は慣れていて、ヒョイヒョイ飛び越えるように走り、瞬く間に日本兵との距離を広げてゆく。高橋中隊長はその動きや身体つきを見て、敵の補給が充分であると察したが口には出さなかった。

 とうとう振り切られて敵の姿を失い諦めかけていたころ、小さな集落に出た。
「ここに隠れたな」
 驟雨はさんざめく雨音に変わり、人の気配を隠している。
 建物を包囲しようと部隊を展開した矢先に射撃音が鳴り、兵士が呻り声を上げて倒れた。
「ぐぅっ……」
「やられたっ!」
「腕がぁっ!」
 高橋中隊長は伏せて射撃音の方角を見るが、敵の姿が見えない。つまり待ち伏せ。敵は逃げていたのではなく、予定の交戦場所に移動していたのだった。
 素早くそれを察した高橋中隊長が叫ぶ。
「クソッ、罠かっ、一旦退くぞっ!」
 泥水の中這いつくばって退き始めると、それを好機とグルカ兵の集団が湾曲したナイフを振りかざして襲ってきた。

 そこからは作戦もなにもあったものではない。
 撃ち合い、斬り合い、殺し合いである。
「来ました中隊長どのぉ!」
「やるぞっ、突っ込めぇ!」
「このやろぉおおっ!」
 日本兵も立ち上がり、銃剣で応戦する。
 高橋中隊長が軍刀で1人を斬り伏せた時、後続の第二小隊が追いついてきた。
「つっこめぇ!!」
 グルカ兵は慌てて引いてゆく。その時、民家の影から一弾が放たれ、高橋中隊長の胸を貫通した。
「ぐっ……」
「ちっ、中隊長殿っ!」
「インパールへ……」
 それが、最期の言葉だった。

 本多大尉は、高橋中隊長の最期の様子を聞くと、俯いた。そして、倒れているグルカ兵を見る。
「顔はまるで日本人のようだ。俺たちとかわらんじゃないか。なぜお前たちが英軍の味方をするんだ。お前たちこそ、英軍と戦わなければならないのではないか……」
 そう呟き、やるせない思いを抱いたまま、再び前進を命じた。

※※※

「Mountain、ではないのか?」
 本多大尉は地図を見ながら聞き返した(日本軍は英軍から押収した地図を使っている)。地図には2000m級の山岳が連なっている。現地人に道を尋ねると、それを”丘”だと言うのだ。
「2000mの山? それはHillさ。Mountainはエベレストだけだ」
 ある種の説得力に本多大尉は関心するとともに、先に待ち受ける苦難を想像した。山と言っても独立峰ではなく山脈なのだ。挺進隊はそれを越えてゆかねばならない。登りの急斜面が続いたあとには、富士山須走口のような荒い砂地の下りが待ち受けていて滑落しやすい。そのような登山、下山を何度も繰り返さなければならない。輸送用の馬を連れ、武器弾薬を持って、である。

 軍が通れる道は無かった。作戦前に上位組織である第15軍が将校斥候を出し、通れる道があると判断したはずだ。
 糧食はすでに無く、軍からの補給も無い。しかも道さえ無く、ただ60kgの装備だけが肩にのしかかっている。

「即刻ミッション橋を爆破すべし」
 その電文に本多大尉は軍の参謀に怒りを覚え、通信兵に言った。
「返信はせずともよい。しばらく報告もしない」
 到着はまだ先である。事情を解せずに命令だけを送る司令部に呆れ、報告も無意味だと判断したのだった。

 本多挺進隊は、重なり合うような倒木を越え、ナタで藪をかき分け道を作る。やっと作った細い道も、雨を集めて川のようになった。
 しばらくぶりに晴れた夜、目の前に不思議な光景が広がって兵士達はそれに見入っていた。
 工兵小隊長の音川中尉が怪訝そうな口ぶりで聞く。
「本多大尉殿、こんな星空が綺麗なのに、稲妻が見えます」
「うむ、しかし雷鳴は聞こえないな。インドの空は不思議なものだ……」
 いぶかしみながら進み、丘の上から見えたのは目指すミッション橋だった。

 喜びもつかの間、そこを通る敵の輸送トラックの列に驚いた。大量のヘッドライトがムカデのように延々と連なっている。その光が薄雲に反射し、稲妻のように見えていたのだった。
「いるな……」
「はい、すごい数ですね」
「補給は無尽蔵と言ってもいいな。我々とは大違いだ」
 羨ましそうにトラックの列を見る本多大尉に、音川中尉は手のひらを見せる。
「これ、いかがですか?」
「ん? なんだ?」
 そこには、どんぐりほどの小さな木の実が2粒。
「さきほど、近くの集落のおばあさんが持ってきてくれたのです。とても友好的で」
「そうか…… いただこう。貴様は食べたのか?」
「自分は大丈夫です」
 本多大尉は一粒返すと、もう一粒の皮をむき、口に入れた。
「美味いな。軍からではなく、他国の人間から補給をうけるとは」
 2人は笑い合うと、すぐに険しい表情に戻る。
「頼むぞ」
「おまかせください」
 音川中尉は言ったが、大量のトラックを見てやはり息を呑んでいる。
 本多大尉は安心させるため、力強く言った。
「爆破まで、俺たちが命をかけて工兵隊を守る」
「お願いします。では、夜が明けないうちに。爆破は0300に行います」
「うむ」
 音川中尉は敬礼すると、工兵隊を引き連れて橋梁に続く坂を下って行った。

 しばらくすると、対岸の英印軍が射撃してきた。爆破時刻にはまだ早い。
「見つかったかっ? 工兵隊が撃たれているのか?」
「いえ、めくら撃ちのようです」
 その言葉を裏付けるように敵が撃つ機銃の曳光弾は左右に散らばり、まとまりがない。
 工兵隊はトラックの列の流れが切れた時を狙って爆薬を仕掛けている。トラックが近づくと、橋梁の柱の影に身を隠した。
 少し離れた丘の上にいる挺進隊からは、彼我の状況が良く見えた。本多大尉たちは手に汗握る思いで見守っている。中には手を合わせて祈る兵士もいた。
「バカっ、見つかるっ、もう少し身を屈めろっ」
「近づいて来るぞっ、伏せろっ……」
 言っても聞こえるはずがないのだが、挺進隊の面々は口ぐちに呟いていた。
 そして、3時。爆発はおこらない。
「工兵隊が見つかってしまったのでしょうか?」
「大丈夫だろう。見つかれば、敵の射撃がもっと激しいはずだ」
 部下の声に本多大尉は答えるが、胸中、同じ不安を抱いている。
 いよいよとなったら隠密行動を止め、挺進隊が橋梁に突入、付近の敵を蹴散らしてから爆破するつもりだった。
 犠牲は覚悟の上だ。
 そして7分経過。
「遅い……」
 本多大尉は突入を覚悟、命令を下す。
「全員、着剣!」
 兵士たちは銃剣を三八式歩兵銃に着剣。緊張で全員の目が吊りあがった。
 そして、10分を過ぎた頃、腹の底から突き上げる爆発音とともに、ミッション橋に火柱があがった。
「やった!」
 思わず立ち上がった本多大尉の視線に、何事も無かったかのように走りすぎるトラックが見える。
 爆発はしたものの、橋梁は破壊されていなかったのだ。
「くそっ、炸薬不足かっ!」
 これまでと突っ込もうとしたところにもう一度大爆発が起こり、橋梁は中央から真っ二つ。
 数台のトラックが河に落ちてゆく。
「今度こそやったかっ!」

 音川中尉が戻ってきた。
「本多大尉殿やりましたっ。軍から指示された炸薬量では心配だったので、10キロ余分に持ってきたのと、対戦車地雷を組み合わせてやっと橋を落しました」
「おおっ!」
 そう言うと、本多大尉は音川中尉を抱きしめた。

※※※

 翌朝。
 敵影の消えたインパール川の河岸で、二人の兵士が竹筒に穴をあけている。二人とも戦死した高橋中尉の配下である。

「それを、どうするのだ」
 本多大尉が聞くと、そのうちの一人が中尉の階級章を見せた。
「それは……」
「はい、戦死された、高橋中隊長のものです。中隊長は、インパールに一番乗りをするんだと、よく言っておりました。ですが、その願いはもう叶いません。だからこの階級章だけでも、と」
「河の流れに乗せ、先にインパールに辿り着かせようと言うのだな……」
 本多大尉の胸が詰まった。

 二人は竹の中に階級章を入れ、厳重に蓋をして、河に浮かべた。

 本多大尉が見送りの敬礼をすると、それは流れを下ってゆく。
(先に行って、待っていてくれ)


 竹の舟はくるくると円を描いて返事をし、名残惜しそうに、ゆっくりと、遠ざかっていった。

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