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届かぬ肖像画 -ニューギニア戦記-

-ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア-

昭和二十年三月十七日
ニューギニア・ニューブリテン島
ズンゲン 日本軍陣地

「既に、本島の西半分は連合軍に奪われている。豪軍は我が方の六倍の兵力だ。そして昨日、水源地を占領された……」

 成瀬支隊長は、着座している各隊長を前に、役者のように整った顔を歪めて言う。その重苦しい声は、南方特有のジメッとした空気に、さらに湿り気を加えた。

 五百名いた成瀬支隊も連日の斬り込みで兵力は漸減し、三百五十名ほどになっている。

(しかしまだ、戦う余力はある)
 居並ぶ隊長の一人、児玉中尉は考えていた。そして、水源地奪回の作戦をどうするか、頭の中でズンゲンの地図を広げて兵力配置をイメージしている。しかし、成瀬支隊長が続けた言葉に、思わず絶句した。

「全員死んで、ラバウル将兵の亀鑑となろう!」
 居並ぶ隊長たちは静まり返り、陣地で鳴く虫の声さえも、一瞬止んだ。

 児玉中尉は、他の隊長の表情を見る。どの顔も、鳩が豆鉄砲くらったように、目をまん丸くしている。そして、成瀬支隊長以外の全員が児玉中尉に視線を送ってくる。
(ちっ、また俺か。まあ、最古参だから仕方ないが)

 ズンゲン守備隊は、成瀬支隊長をはじめほとんどの将兵に実戦経験が無く、配下の兵隊には、第二国民兵(徴兵検査の丙種合格の兵隊のこと。通常は徴兵されない)も多く、他の部隊と比べて戦力は低い。

 ただ一人、児玉中尉だけが中国大陸から転戦してきたツワモノである。そのため、イザとなると他の隊長たちは児玉中尉に頼り切りになっていた。

 黙っていたら、このまま全員玉砕と決定してしまう。児玉中尉は一つ息をはくと、口を開いた。
「支隊長殿、兵力は充実しております。水源地を奪回しましょう」
「六倍の敵だぞ。すでに三回も斬り込みをして、奪い返すことが出来ない。水が無ければ、三日と持たない。干からびて死ぬよりは、武人らしい最期を遂げようと思う」

(この男の考えることはいつもそうだ。直情すぎる)
 湧き上がる反感を抑え、上官の顔を潰さぬよう、なるべく穏やかに反論した。
「兵力差が理由であれば、日露の戦役は優勢なロシア軍が勝ち、我が方が負けております。しかし、結果はご承知の通りです。それに、ここズンゲンは長期持久戦の方針のはず。山岳地域に兵力を分散し、遊撃戦を展開しましょう。その方針に基づき準備はできております。山の斜面に壕を掘って、食料を分散してあり……」

 言葉も終わらぬうち、成瀬支隊長は怒鳴った。
「違うっ! 先日、軍の参謀から、死守命令がでておる。陣地を出て遊撃戦など、とんでもない話だ」
「死守命令? じっ自分は聞いておりません。他の隊長は?」
 全員が一斉に首を振る。
「支隊長殿、それは本当ですか?」
「勿論だ。三十八師団の松浦参謀から師団命令を受けている。師団命令だぞっ、貴様、逆らうというのではあるまいな」
(このド素人がっ)
 児玉中尉は、その言葉を飲み込むことに苦労した。

 しかし、頭にのぼった熱い血液はなかなか冷えず、思わず日頃の不満が口をついて出た。
「逆らうワケがありません。しかし、ラバウルには十万の将兵が戦闘も無く、呑気に暮らしているではありませんか。なぜ応援もよこさず、我々だけが死なねばならんのでしょうか? いいですか支隊長殿、ラバウルとズンゲンは七十キロ離れているとはいえ、陸続きですよ。孤島で玉砕ならやむを得ないでしょうが、こんなところで死ぬ意味がわかりません。犬死ではありませんかっ!」
「陸続きだろうがなんだろうが、師団命令だっ、貴様は俺と一緒に死ねばよいのだ!」
 児玉中尉の言葉から、遠慮が消える。
「必要も無いのに死ねですと? あなたの戦闘指揮はまるで下士官のものだ。陸士出(陸軍士官学校出身)の作戦とは思えない」

「なんだと貴様ぁ!」
 普段、もの静かな成瀬支隊長が椅子を弾き飛ばさんばかりの勢いで立ち上がった。そして、同じく立ち上がった児玉中尉と睨み合う。
 成瀬支隊長が諦めたように、静かに座った。
「では、貴様の隊は好きにしろ。俺は他の隊を率いて最後の突撃を敢行する」

「いいでしょう」
 児玉中尉はそれだけ言い、五十二名の部下を率いて山岳地帯に向かった。

※※※

「自分たちは、敵前逃亡になるのでしょうか?」

 敵前逃亡は軍法会議で死刑である。

 児玉中尉は、タンカに横たわった姿のまま、不安に包まれて気もそぞろな部下たちに向かい弱々しく言った。

「お前たちは何も心配することは無い。全ては俺一人の責任だ」

 部下たちの不安には理由がある。
 山岳地域で成瀬部隊の生き残りと合流し、玉砕前の状況を聞いたのだった。それによると最後の突撃の直前、成瀬支隊長は師団に無電を打ったというのだ。

『本夜を期してズンゲン守備隊長以下全員、最後の斬込みを敢行する。ラバウル将兵の赫々たる戦捷を祈る』という、内容である。

 つまり、訣別電だ。これを受け取った師団司令部は当然、ズンゲン支隊が玉砕したものと判断して軍に報告、軍は大本営に報告する。それは天皇に報告したことと同義だ。別行動を許したはずの児玉隊には、一切触れていない。

 児玉中尉は、表情を曇らせる。
「『全員』か。俺たちも最後の突撃で玉砕したことになっている。支隊長は俺を許していない。突撃で死なないのなら、軍法会議で処刑されてしまえ、と言っているのだ……」

 部下たちの不安の原因は、もう一つあった。それは、児玉中尉が重度のマラリアにかかり、一歩も動けなくなったのだ。移動は部下たちがタンカで運んでいる。予定していた山岳地帯で遊撃戦など、できる状態では無い。

 キニーネは無く、児玉中尉は日に日にやせ衰え、話すのもやっと、という病状だ。
「す、すまん…… 俺は、もういい…… みんな、ヤンマー陣地まで後退しろ……」
「中隊長殿、がんばってください。一緒に、退がりましょう」
「俺は長く、無い。みんな俺の命令で撤退するのだから、責任は問われないだろう……早く、行け」
「今まで生きてこれたのは、中隊長殿のおかげですっ! 置き去りになど、できませんっ」
「ヤンマー陣地まで、四十キロ以上ある…… 俺を担いで行けないことぐらい、お前たちも解っているだろう? そうだ、どうしてもと言うのなら、俺の代りに……」

 児玉中尉は痩せ細った腕を伸ばし、図嚢入れの中をまさぐると、一枚の肖像画を部下の小隊長に渡した。
 そこには、軍刀を握って和やかな表情をした、ありし日の児玉中尉がいる。

「これは?」
「ふふ、良く、描けているだろう? お前の小隊の、武良一等兵(後の水木しげる・ちなみに、玉砕前に空襲を受けて左腕切断の重傷を負い、後送されている)に描いてもらったのだ。これを、俺の家族に届けてくれ……」

 児玉中尉はそう言ってタンカを降り、瞼を閉じる。

 後ろ髪惹かれる思いで、ヤンマー陣地を目指す部下たちの背後で、銃声が悲しく響いた。

※※※

「絵を内地に送れだと? 貴様、自分の立場が解っているのかっ! 貴様に隊を任せることは出来ない。本来なら敵前逃亡で処刑だ。それより、名誉の戦死とすれば、遺族にも恩給が下りる。非国民として非難されることも無い」

「どう、すれば、いいと……」

 児玉隊の小隊長は、命からがら辿り着いたヤンマー陣地で、師団から派遣されてきた松浦参謀に怒鳴られながら、しどろもどろに聞いた。

 参謀の返答は、冷ややかなものだった。
「貴様も将校ならわかるだろう」

つまり、自決しろというのだ。

 松浦参謀は、ズンゲン支隊玉砕の早まった報告が大本営にされたことに一切触れず、ただ支隊長と伴に死ななかった小隊長を逃亡罪(敵前の場合は死刑もありえる)だと言って激しく責めた。

「い……遺書を」
「そのくらいの時間はやる。しかし、あまり長く待たせるな」

 小隊長は、遺書を二通書いた。一通は、家族と自分が担任を務めていた女学校の生徒たちに宛てたもの。もう一通は、参謀への恨みの言葉を綴ったものだ。
 しかし、そのような内容の遺書は検閲を受けて破棄されるであろうことを、小隊長は充分にわかっている。

「参謀に燃やされるより……」
 空き瓶に児玉中尉の肖像画と、恨みの遺書を入れて厳重に栓をした。そして海辺に行くと、波に浮かべる。

「いつか、日本にとどいてくれ……こんな死に方をする、俺の存在を、伝えてくれ……」

 松浦参謀が、背後から声をかけた。
「覚悟はできたか」
「はい」
 そう言って、軍刀の鞘を捨て、切っ先を腹にあてた。背後には介錯するため、すでに一人の将校が拳銃を構えている。

「児玉中尉、自分も、行きます」
 小隊長が体重を刀の先端に乗せたと同時に、拳銃が火を吹いた。
 何の感情も持たぬ短い発射音は、すぐに波音に消されてゆく。


 恨みを乗せたメッセージボトルは、今でも南太平洋の波間で漂い、彷徨しているという。

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