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三月の雨

今年は淵上毛錢の生誕100周年、今日3月9日は没後65周年。
詩集を取り出して繙くと、詩人の若い頃の写真が目に飛び込んできた。昭和10年、これから長い闘病生活が始まろうとする頃。まだ少しは動けたのか、海岸でソフト帽にステッキを持って座る、優しく心もとない微笑の二十歳の青年。これまで臥せっている姿が作品とオーバーラップしていたので新鮮に映った。
ふっと、そのまま砂地に潜り込んでしまいそうな、「美しい空っぽに」なってしまいそうな印象に、思わず鉛筆を走らせた。写真だから消えもしないのに、なんだか慌てて……。

それから幾つかの詩を読み、降り止まぬ雨を眺めたり聞いたりしているうちに、妙なものを書き始めてしまった。



詩 三月の雨

  
  じつと雨を見てゐると、
  しまひには雨が自分のやうに思へてきて、
  へまなぼくがさかんに
  降つてゐるのであつた。
              —淵上毛錢「梅雨」


雨の九日
さかんに
誰やらのへまが降っている
と眺めていたら
そうだった
死んだ者のへまは
へまではなくなるのだった

では誰の?
とぼけても仕方あるまい

ぼくも
「人生の悲劇の尻つ尾ばかり握って」
ここまで暮らしてきたのだから
へまの質量とも
毛錢をしのいだろう

朝から
三月の雨音を聞いて
さかんに
詩人のたまに降られている
自分のへまに降られている
なるほどこれが
彼の言う「豪華なひととき」
であるのか


  ※「 」内の詩句は毛錢の詩からの引用

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ステッキ代わりの詩は「眺望」という作品の一節、正しくは

  僕はこのまんま
  美しい空つぽになりたくて

やっぱり慌てていたな。


   *


淵上毛錢を巡って、Twitterである人とやりとりを交わしました。
それがきっかけで生まれた小詩集です。
『毛錢の雨』


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