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表題 明治近代化と自我 副題 小泉八雲の夢と創作

日本の近代化、明治維新というのは、同じ東洋の大国であったインドや中国のように西洋列強の植民地になっては大変だという意識が先行し行われた。

そこからあのような革新が、断行され近代化が始まったのであるが、非常に先鋭的な形で西洋の近代文明を取り入れ、当時の言葉で、いわゆる「文明開化」の運動として新しい文明意識、文化意識を引き起こした。

社会の在り方や制度を世界に類がないスピ―ドで変革を成し遂げた反面、明治三十年代(一九〇二年)以降になると、思想とか精神文化面で一つの反省のようなものが出て来た。

西洋かぶれではない、日本には日本なりの立派な伝統があるではないか、といった一つの反動のようなものである。

例えば文学でいえば、夏目漱石、森鴎外らを頂点とする明治文学、思想の面では西田幾多郎、鈴木大拙らの出現と活躍である。

これらの人達は非常にレベルの高い西洋の精神生活の内面に立ち入って西洋を習った。

西田幾多郎は、哲学者でありながら西洋の文学や教養について高いレベルでの専門的な知識を持っており、西洋哲学との対話の架け橋になるような東洋的日本的な無の思想をベースにした論理体系構築の挑戦をしていた。

夏目漱石は英文学専攻で、英国に国費留学したその実力は、当時の日本人の間では、群を抜いている。自分の抱いていた問題が西洋の文化に習熟している中から日本人であるという自覚を、どの様に表現するかが、はっきりと出初めて来た時期でもあった。

また、日本の近代化についても、表面は華やかだが、人間の心の面からではなかったと考え、それは、西洋文化に圧迫された近代化であり、自分の内面からの近代化ではないと考えていたのだった。

西洋近代などの他への依存を全て捨てて、自己本位であるべきものとし、自分の内面を追及して充実させることで、自我を確立させることが大切だと訴えていた。

その他に、日本及び日本人が、無批判に西欧化するのを憂いていたアイルランド系帰化人、小泉八雲がいた。

明治二十九年(一八九六年)九月、彼は東大の英文学講師に就くため、一家で上京することになった。

女性として新しい生活に期待する妻を横目に、都会嫌いの彼にとっては、上京は、嬉しくはなかった。

「もう東京には、広重描いたような江戸、ありません」
彼は、東京が西洋化していることが気に入らなかった。

「私、理解不能。日本人、なぜ西洋のマネする? 日本人、いいものたくさん持っているのに」

小泉八雲は、安住の地を求め世界を漂泊した末、日本に於いて仏教の自我論に根差す一つの結論を得ていた。

人間という不完全な存在、その偽れる意識の影に隠れ、我々が霊魂と呼んでいる永遠にして神聖なるもの、「絶対の実在」というべき仏性が、言葉を変えと呼ばれている真正の自我であることの認識とそれに依拠する自己の確立である。

禅がよく使う用語で無底という言葉がある。
「無一物中無尽蔵」という言葉に暗示されているように、底抜けをいう。自己の底を抜き、茶碗の底を感じなくなることが無底なのである。だから無底の茶碗にはなんでも入る。

小泉八雲の怪談に収録されている『茶碗の中』の鏡に(底があるから)現れる幻像とは、八雲の内なる自我、八雲が封じ込めようとする過去の霊魂と言うべき西洋的自我であったのではないか。 

その自我は飲み込まれるという否定的行為にあっても、「ひどい傷を被った」と言いつつも、一向にこたえた様子もなく、変幻自在に出没し、その存在を認知せよと八雲に迫るのであろう。

八雲の体内に飲み込まれてしっかりと根ざし勝ち誇っているのかのようにみえた自我とは、自己と分離され独立した対象(自然)の認識といっても良い。

自己にだけ、効率的に改良された自然である。このような自然は、考慮すべき意思も精神も無く、単なる物質的世界で、自己(人間)に利用されるのを待っているだけである。

更に人間間の競争も、ダーウィンの進化論が背景となり過度に強調され、適者生存・強者の自由を最大限認める社会となる。 

西洋技術社会が主導し、支配してきた西洋的自我の行く着く先である。この様な八雲自身の過去と呼ぶべき西洋的自我は、自己の底に「絶対の大我」と呼ぶべき仏(無)の自覚に至った時彼自身の底が抜け、茶碗の底を感じなくなると同時に幻影の如く消え去ったのであろう。

西田幾多郎や夏目漱石の場合、ただ西洋の学問だけをやっていただけでは、「自分が何者かがはっきりしない」という問題に突き当たり、答えを禅に求め、禅での知見を哲学や文学に結び付けようとしていた。

彼等二人が抱いていた「何者かである自己」の覚醒とは、ただ無限に自己の中に自己を見てゆくことである。
無という言葉は、この追究の果てに提示される。

無の理解を通してこそ得られることの真の自覚とは、このことを指すのである。

西田幾多郎は、肉親や知人の死による深い悲しみから「哲学は、人生の深い悲哀でなくてはならない」と哲学し、詩作する者としての自覚の底に覚悟の様なものをもっていた。

わが心深き底あり喜びも憂の波もとどかじと思う」という彼の短歌は、意識の最も深い所、普遍的な深淵に、無意識とは違う、喜びも憂いの波も届かない我なき無、無我の場所を自覚するものであった。

彼は、生涯、この無の場所で無の自覚を問い続けた

夏目漱石は、小説『門』で書いた参禅で果たせなかった「己自究明」への未解決の論究を、後の『こころ』『行人』の創作へとつなげていった。

『行人』にある「絶対を経験している人が、俄然として半鐘の音を聞くとすると、その半鐘の音は即ち自分だというのです」は、西田の純粋経験の哲学「自己の意識が、経験直下、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している」を引用している事が理解できる。

この「知情意」未分の体験直下の自覚なき自覚こそ西田の言う無の境地であり禅の悟りである。

もし『明暗』を仕上げ、漱石に数年、本気で坐禅するだけの生命が与えられていたなら、小泉八雲に匹敵するような心霊上の事実に基づく新たな創作上の展開が有ったかも知れない。

何故ならば,小泉八雲がそうであった様に夏目漱石にとって禅の悟り、無の境涯こそ、苦悩する自身の宗教的要求であり、文学の目的であったからである。

その件に思い当たるのが『吾輩は猫である』の文中に、主人公の苦沙弥先生が 「僕のも大分神秘的で、故小泉八雲先生に話したら非常に受けるのだが、惜しい事に先生は永眠されたから」 と一ヶ所だけ、八雲について語ったところがある。

小泉八雲と夏目漱石は文学者という共通の関係を越えた不思議な縁もあった。小泉八雲が退職した熊本の第五高等学校の二年後の後任に英国帰りの夏目漱石が就任している。

また小泉八雲が辞めた東大の英文学講師の後任も漱石であった。そのことについて「小泉先生は英文学の泰斗でもあり、また文豪として世界に響いた偉い方であるのに、自分のような駆け出しの書生上がりのものがその後釜にすわったところで、とうてい立派な講義ができるわけのものでもない。また学生が満足してくれる道理もない」と小泉八雲の実力を正直に認めている。

日本近代とその自我の目覚めは,全体的には権力によって囚われ,政治的に敗北している。しかしそこに、危機感を抱いたこの時代の幾人かの知識人は、人間の「永遠の生命」について深い思索を重ねていた。

それは、自然(神、仏、無)によって創造され、決して滅びることがないものであり、それに無限の内容と意味性を与えることが,近代的自我の確立と確信したのである。

この様な観点から、明治期の近代化と反省を通し通称西田、漱石、八雲らの無の思想的関わりを述べてきたが、次の主題として、小泉八雲の創作上の思想や考え方について論究してみたい。

八雲は夢をよく見た。夢の内容も良く覚えており、それを大事にした。東大英文学の講師を務めたある日の講義で、学生達にこう述べている。


もし諸君が優れた想像力を持っていたなら、霊感を得るために書物に頼ることは止めた方がよい。それよりも、自分自身の夢の生活に頼るのだ。それを注意深く研究し、そこから霊感を引き出すのだ。単なる日常の体験を越えたものを扱う文学において、ほとんどすべての美しいものの最大の源泉は夢なのだから

小泉八雲は、夢が文学に果たす役割は大きく、最も大切なものだと考えていた。

また夢のような日常性を越えたものを描くのが、文学の目的であり、それを描写することは、最も美しいものを表現するのに等しい事と想っていた。

とにかく文学という道を通して、人間の問題や人間関係の根源を突き詰めて探究することは、日常を越えた世界の認識を問うことに他ならない事と想っていたのだ。

東京での小泉八雲は、自宅裏の通称、瘤寺を好んで散歩した。当時の瘤寺には、豊かな自然が多く残され、それを気に入った彼は、この寺で僧侶に成りたいと妻に語った程であった。

そんな、お気に入りの寺での晩秋の一時、死の季節に移ろいながらまだ生の温もりを残す様な柔らかな日差しの中で、深い思索に耽ったのだろう。

小泉八雲の自覚の中心には「晩秋の石段にはいつも無というものの言葉が秘められているのを感じる」という世界観のようなものが有った。

また、瘤寺のこの様なシチュエーションは、普段は何気なく見逃している無機質な石段にも注意が向いたのであろう。

日本的な哀愁と、無という言葉の何か謎めいたパラドックスは、小泉八雲の好んだものであるからである。

ここは寺。石段は向こうの霊界とこちらの俗界、二つの異なる生死界を隔てながらも繋げている。

その異なる二面を、全体化、統一化しながら一つの知覚として自己の内面に引き込んでいく。この意識の内面化、矛盾的統一が無の現前と言われるものである。

生と死は矛盾・対立しているが、「一瞬一瞬、死に向かう生であり、死につつある生」と捉えれば「生即死」として一つである。

外面的にはどんなに対立しているように見えようと、絶対無の立場に立てば、それは矛盾のない同一のものであると分かる。

存在は無であるならば、こちらから観れば一切の存在は消え去るもの、実体のない無常、現象の世界。向こうに立てば一切の消え去るものが、生じる本質ともいえる場所。

西田幾多郎はこれを「絶対無の場所」と名付けたが、それについて、彼は更にいう。


「仏教、特に禅に於いて無は、単なる非有ではなく無と有の対立を越えそれを包括する絶対の根源となる。無は知識から見れば、何も無いものとなるが、実は力強い実在であって知識の根底を形づくる生命の力である」

日本人は無を無常観と結び付け「物のあわれ」として否定的に捉える。しかし、すべてのものは移り行く無常。それが、真理だからこそ大事にすべきといった現実肯定的な側面を持つ。

そこから、エゴ的自己だからこそ、慈悲的な自己への目覚めの肯定があり、その本質を、ダイナミックな運動体としての生命と認識する。

この、生命の自覚を仏教では、無の現前、現成というのである。

西田幾多郎が『思索と体験』に「心の奥より秋の日の様な清く温き光が照らして、凡ての人の上に純潔なる愛を感ずることが出来た」と述べている。

これが全ての平等性に根差す無の働きである。禅者でもあった西田幾多郎のこの言葉に、無の本質が表現されている。

小泉八雲が、瘤寺でこの様な自覚に至ったのは、偶然ではないこの時代の行き過ぎた西欧化への反省というべき日本的なものへ回帰する思想の流れと無関係ではなかった。

小泉八雲を目標とする作家志望の学生にとっても、この様な創作活動の基本をなしていた思想を理解することが「豊かな想像力により霊感を引き出す」ことに繋がるのである。

しかし、「有」ると、思っていたものが実は「無い」いう「無」は、わかり難い概念である。

仏教では、一切は無としながらも、無の根拠として「無即有」と説く逆説的な存在論を展開する。

では何が実在かとなるが、一切の有を否定することによって全ての有の根拠となる「絶対無」を根拠とした有が、現実的世界の実在と考える。

絶対無の境地というのは、意識の現れる場所があらゆる事象や観念にとらわれていない絶対無であることの自覚を通し、意識経験そのままが実在であり自分の姿であると自覚する境地である。

世界を自分自身として受け止めるというのは、所謂悟りの境地であるから、なかなか到達できない境地である。しかし、その様な無の場所こそが、自己が成立し、そこで働き、そこへ帰り着く自己の在所ともいえる場所なのである。

ここからは、小泉八雲が考えていた時間について考察をしてみたい。
時間は元々運動変化を抽象化したものであるから数式の中でしか存在しないものである。

良くも悪くも存在しない時を刻み時間に追われ生活しているのが人間である。

しかし、時間は人間にとって単なる物理上の変数ではない違った捉え方が必要となる。普通時間というものは過去から現在、そして未来への直線的流れと捉えるが、仏教哲学の中では、時間は未来から現在、そして過去へと流れているという考えがある。

仏教哲学に詳しい小泉八雲の創作を支えた豊かな想像力や霊感は、この様な時間論を持っていたからだろうと推測している。

現在は一瞬で過去になり、今、現在だったことはちょっと前の未来である。今現在やっていることが、直ぐに過去になる。つまり現在の結果が過去である。

自分に向かって未来がどんどんとやってきては、過去へどんどん消えていく。これは時間も無である事を示す。 

無であるからこそ現在この場所では、過去現在未来は一つに融合し、私たちの意識次第では、どうにでも変化自在になる。それどころか時間を巧みに駆使して自己本来の自由を回復する。換言すれば過去現在未来を絶し、未分に内包する無限の可能性の場所となる。

次は小泉八雲のいう夢についての考察である。

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どんな夢にも内的なメッセージ性がある。夢は内的な願望や欲求不満の視覚化であるが、覚醒している様な、眠っている様な「夢うつつ」の状態で見る夢もある。これから起こる、であろう出来事に啓示を与える夢である。

潜在意識に刷り込まれた思い出したくない嫌な記憶、怒りや憎悪の否定的なものを明るい潜在意識に変えることによって、夢を変えることは可能である。

予め建設的な潜在意識を持つ大切さは、時間の所で説明した様に、現在此処での運命は過去の因果で決まるのではなく未来の因果によって決まるからである。

夢でも現実でも願望実現のイメージを鮮明に思い浮かべると、脳はそれを現実と同じように感じ、そのイメージの情報に沿った活動を開始することになる。

小泉八雲が言う「自分自身の夢の生活」とか「それを注意深く研究」は、この様なことなのであろうか。

夢が文学に於いて、最も大切なものだと考えていた小泉八雲の代表作が『怪談』の中の「安芸之介の夢」という物語であろう。

安芸之介という郷士がある日、庭の杉の木の下で昼寝をして、夢を見た。夢の中で安芸之介は「常世の国の王」と名乗る人物に招かれ、その姫君の婿になる。

婚姻の儀が終わるとしばらくして安芸之介は、常世の国の西南にある島の統治を任される。島の住民はみなおとなしく、安芸之介の統治に熱心に従うので、特に苦労もなく月日が過ぎ、安芸之介と妃は幾人もの子供たちを作る。

 しかし、島の統治を任されて二十四年目に安芸之介の妻が亡くなると、彼は生きることに絶望する。

墓碑を島の美しい丘に建てた後は、何をする気もなくなってただ妻の喪に服していたが、ある日常世の国の国王から「安芸之介を本国に送還する。残された子供は常世の国で養う」という通達が来る。

そして島を去ろうとしたところで目が覚めると、安芸之介は以前として庭の杉の木の下に寝転がっていた。

そばにいた友人にその不思議な夢の話をすると、友人によれば、安芸之介が眠っている間、小さな蝶が安芸之介の顔の上を舞っていた。すると蝶は突然地面に落ち地面の穴から出てきた大きな蟻に巣穴に引き込まれた。

その後、安芸之介が目覚める直前に蝶は巣穴から出てきて、また安芸之介の顔の上を舞って消えたという。

それを聞いて安芸之介は即座に辺りの地面を掘り返すと、地下にはいかにも巨大な王国を思わせる蟻の巣穴が広がっていた。そしてその巣穴から少し西南の土を掘り返すと、巣穴の中に小さな丘のような土の盛り上がりを見つける。

そこには一つの小石が転がっており、それをどけると、一匹の雌の蟻の死骸が静かに横たえてあった。

という粗筋である。 

美しい物語であり、文学的にも優れたものと想う。
夢の中で過ごした長い年月、安芸之介の妃への愛情、そして最後に現れる雌の蟻の死骸。

日本人の抱く「無常」とか「はかなさ」といった観念を一瞬で理解した気にさせてくれると同時に、蟻に対する尊敬のような想いが込められた作品である。

蟻について彼は他の随筆の中で、生まれながら無私にして忠実な個の蟻が、その生涯の全てを種族への献身に捧げていることに、経済的のみならず倫理的にも、蟻社会は人類より一歩進んでいると書いている。

それは夫々の立場に応じ、自ずと利他の精神を具現しスペンサーの社会有機体説や大乗仏教の理想を実現しているかの様な彼等社会にいたく感心する想いが有ったからであろう。

八雲のいう夢とは、睡眠中の夢であり、また現実を離れた空想と幻想が織りなす「夢うつつ」の世界でもあり、瞑想体験が導く無の世界であったが『安芸之介の夢』で描かれたようにその内容は単なる夢物語ではなく彼の科学的、社会的、宗教的、倫理学的な思想を披瀝する物でもあった。

故に再話文学の範疇を越えたその作品の質は、作家としての才能もあろうが、知情意の根源としての霊感や文学者としての豊かな想像力によって高められたのであろう。

亡くなる朝、目覚めた妻が声をかけると「昨夜大層珍しい夢を見ました」と言い、一人静かに煙草を燻らし瞑想していた。

「どんな夢でしたか」と尋ねると「大層遠い、遠い旅をしました。西洋でも日本でもない珍しい処でした」と答え一人静かに興じていたという。

「私、死にますとも、泣く、決していけません」
彼は、近づく死を覚悟し、死の何たるかも自覚していた。

 亡くなる数日前、可愛がっていた松虫を、全て草むらに逃がしている。この優しさは、彼の宗教的自覚と覚悟というべき生きとし生きるものへの慈悲の実践であった。

死を目前とした八雲の魂は、自らが到達した無の場所、日本でも西洋でもない、ただ遠いと表現する時間空間の認識さえもない旅をイメージしていたのである。

終了


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