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北条政子という女性

初めに
日野富子に続いては、やはり頼朝の妻で夫亡き後、承久の乱で御家人たちに結束の檄を飛ばし、将軍専制から御家人主導の新しい政治体制への先鞭をつけた北条政子を取り上げねばならないだろう。

政子は我が静岡県の韮山に本拠を置く平氏方の武将、北条時政の長女として生まれた。彼女が夫亡き後尼将軍と呼ばれ、女性でありながら、幕府権力の中枢を握っていく過程は、日本三大悪女と揶揄されるように尋常ではない、何かがあったに違いない。

政子は頼家、実朝ほか二人の女性の母であった。
当然父親頼朝の残した幕府の基盤整備を計らねばならない長男頼家は幽閉先の修善寺で暗殺され、3代将軍を継いだ次男実朝も右大臣就任を報じる鎌倉鶴丘八幡宮社殿で甥の公暁に暗殺されている。

頼家の子で暗殺者、公暁も殺され男子直系の少ない頼朝の後継はこれで一切が絶たれ、鳴り物入りで発足した鎌倉幕府は早くも頼朝が画策した体制から逸脱し始めた。
その過程で何らかの野心があったかもしれない政子は、弟北条義時への権力継承を計っていく。

頼朝が落馬により急死。その事故さえも真相は闇の中。急遽長男源頼家が18歳の若さで2代将軍に就任。
その3ヵ月後には、建前は源頼家を補佐する名目、実際には独裁を防ぐために北条政子の弟・北条義時や父・北条時政、そして「比企能員」(ひきよしかず)など13人の有力御家人達により合議制が発足した。

これにより源頼家は、御家人たちの領地安堵の保証をする重要な訴訟を直接裁断することができなくなったのです。源頼家には自身の乳母の夫・比企能員を重用したり、側室を比企一族から選んだりと、比企氏を何かと贔屓する傾向がありました。

さらには、源頼家と比企能員の娘の間に長男「一幡」(いちまん)が誕生したことで、比企氏が権勢を振るうようになっていきます。

そんななか源頼家は、1203年(建仁3年)に急病で倒れ、一時危篤状態に陥ります。
これを機に、源頼家の後ろ盾になっていた比企氏が本格的に台頭することを恐れた北条政子と北条時政は、源頼家の弟・源実朝を3代将軍に擁立。病から快復し、このことを知った源頼家は比企能員に北条氏討伐を命じ、反乱を起こします。

しかし結局は失敗に終わり、源頼家は実母である北条政子により「修善寺」(しゅぜんじ:静岡県伊豆市)に幽閉され、祖父北条時政の暗殺部隊に殺害されてしまったのです。

ここで指摘されるのが政子は実子殺しの悪女であったのかないのかということである。
この件に関し頼家、実朝の母である北条政子の振る舞いを見てみよう。
謀殺された2人の将軍は、ともに政子の実子であり、また実朝殺害の実行犯である公暁は、父親母親亡き身を政子が不憫として、幼少のころから手元に置き可愛がった孫である。

源氏本流断絶の背景に北条氏の暗躍があったことは明らかだが、政子は自分の実の子や孫が抹殺される計画に積極的に加担したのであろうか。

彼女にとっては、実家の覇権のほうが重要だったのか。あるいは計画を知っていながら、いたしかたなく黙認したのだろうか。鎌倉源氏将軍家には私のような素人歴史家を含む者がその真相解明に悩むところである。

権力者の親族間の主導権争いはありふれた出来事で、たとえば足利尊氏は弟
の直義を謀殺した(観応の擾乱)。時代が下って、織田信長も尾張一国の支配のために、弟をはじめとして多くの親族を抹殺している。秀吉然る。

このように親や兄弟の抹殺や追放というのはさほど珍しくはなかったが、「子殺し」というのは、さすがにあまり例がないようである。徳川家康は信長から疑いをかけられた息子の信康に切腹を命じたが、これも断腸の思いで死を命じたと伝わっている。こうしたことを考えると、北条政子が2人の息子とどう向き合い、なぜ彼らの死を許容したのか、その理由を推理するのが今回の記事の目的である。

ネット記事を拾えば、子殺しというテーマで思い出されるのは、古代ギリシアの劇作家・エウリピデスによる『王女メディア』である。夫・イアソンに別れを告げられて追放されたメディアは、イアーソーンへの復讐のために彼の新しい花嫁とその父王を殺害、さらに自分の2人の息子までを殺害してしまう。メディアを犯行に駆り立てたのは夫への復讐心であったが、北条政子も、頼朝や源氏一族に対する怒りを胸に秘めていたのかもしれないとこの記事の作者は言う。

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