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物理学と一般常識 その1

「色即是空 空即是色」
私もそうであるが、寺や仏教と聞くと、「墓仏壇お経」等々、葬式に関係するような言葉ばかりが脳裏に浮かび辛気臭く成る。
しかし以前はともかく最近では少し違ってきたような気がする。
仏事や葬式には誰もが墓や仏壇の前で手を合わせてはいるが、ほとんどが形式だけで心底から仏教徒として信心している人は少ないのではないか。一言でいえば宗教の形骸化である。

成人し世の中の色々な事件や事象に遭遇してみれば、殊に最先端の物理学を齧ってみると古いと思われた仏教にも現代や未来に整合する考えが多いのではとの思いに至っている。
勿論、物理学者でも宗教学者でもないからこじつけの独我論に陥っている可能性はあるが、その筋の専門家といえどもすべてに合理的な理解を持っているのではないだろう。それほどにこの分野は哲学の存在論につながる奥深いテーマなのだ。

生まれ育った実家の仏壇にはいつも般若心経の経典が置かれていた。仏教の最も基本的な経典である「般若心経」を解き明かしてくれる大人は周囲には皆無であった。
その中の「色即是空、空即是色」この奇妙な言葉に子供心に惹かれたのだろう、東京での一人暮らしが始まると仏教の解説本を読み漁った。
これら、空や色を直訳すると「物質(色)はすなわち無(空)であり、無はすなわち物質である」というような意味になるという理解は得た。
しかしこれが自分の生死を理解する存在論の基本になるという理解は得られなかった。
ある時、インターネット上で科学雑誌の関係記事であろう、こんな記事にヒットした。内容はこんなであった。
 最先端の領域である量子力学によれば、全く何もない真空中でも常に極微のエネルギーのゆらぎが存在し、それゆえに無からでも物質が生じるという。ただし、この場合の「無」とは「物質が無い」という意味で、その元となる「エネルギー」は存在している。
これを、物理学の専門用語で「対生成」という。量子力学によると、真空の中でも絶えずこの対生成により粒子と反粒子が発生している。反粒子とは、粒子と全く同じ性質を持っているが、電荷(電気的性質)が反対なだけの物質である。
この反粒子は、粒子加速器という装置を使って作ることもできる。ただ、その存在が極めて不安定で、反粒子は生まれ出るとほとんど瞬時に粒子と合体して消滅してしまう運命にある。これを専門用語で「対消滅」という。
アインシュタインは、かの有名な式「E=MC^2」(Eはエネルギー、Mは質量、Cは光速)で、物質がエネルギーに変換できること、またその反対にエネルギーが物質に変換できることを証明した。
これを小学生にも分かる算数で表現すると「0⇔1+(-1)」となる。つまりゼロから+1が生まれる時には必ず-1が同時に生まれる、あるいは反対に+1と-1が合わさるとゼロになる、ということをこの式は表現している。現にあなたという存在が今ここにあるのは、あなたが「+1」だからである。もしゼロしかなかったら、あなたもそしてその他のあらゆる物質も文字通り「無」になる。では「-1」はどこへ消えたのか。それが現代宇宙物理学でも最大の謎の一つとされており(一般的には対称性の破れによって消えたと説明されているが)、反粒子が本当に消えたのかあるいはどこかに切り離されて隠されているのかもよく分かっていない。
真っ平らな鏡のような水面も、石を放り込むと(つまりエネルギーを加えると)波が立つ。波には、必ず山の部分と谷の部分ができる。山だけの波、谷だけの波は存在しない。これと同じである。そして、現れ出た波の山と谷は次の瞬間には打ち消し合って対消滅を起こして消えてしまう。そんな目に見えない波が、あなたの周辺の空間のそこら中に満ちている。ただ、そんなゆらぎはあまりに小さいため、人の五感はおろか電子顕微鏡ですら観察することは絶対にできない。
「色即是空、空即是色」は、まさにこの対生成・対消滅を表現したものである。

確かに「色即是空」は、形あるものはすぐに壊れて消え去るということを言っているように見える。しかし、「空即是色」は形あるものは、形なきものの現れと言っているのだろう。
その2へ続く


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