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美人薄命 『訣別の朝』

人口の集中化と密接に関連する結核は、ヨーロッパでは確実に死を招く「白いペスト」として恐れられ、19世紀には産業革命により人口が都市へ集中した英国から広がり始め、やがて全世界に白い陰影が爆発的に蔓延した。

日本でも工業化が進んだ明治以降に、人口の過密化と劣悪な労働環境が進み、結核が急速に広がった経緯がある。 

かつて、結核は「労咳」と呼ばれ、「不治の病」とされる「国民病」で貧しい庶民が貧困生活の末に結核を患い死に至ったことは枚挙にいとわない。

明治の文豪と称される正岡子規や森鴎外など文化人も例外ではなく才能や美貌に恵まれた若者の死を惜しんで「肺病天才説」や「佳人薄命」として語られることが多い。結核にかかることやそれが死因といわれることが一種の文化(ロマン)とされる気風さえあったのだ。

 結核に対する初めての薬であるストレプトマイシンが発見されてのは1944年のことです。それまでは「結核=死」の病気でした。しかし、ストレプトマイシンの発見からその考えは劇的に変化し、結核は治る病気へとなりました。1970年頃の我が国では結核患者数が激減し、結核は「過去の病気」と思われるようになりました。 

結核の特効薬である抗生物質が治療に使われる前の話である。

宮澤賢治のすぐ下の妹であったトシ(とし子)、幼い頃から優れて利発で家族からも愛されていた。賢治さえ上級学校(大学)への進学が認められなかったのに、トシは日本女子大に進学している。

日本女子大は、当時の子女の進める学校としては最も上級とされていた。
しかし、トシにとって大学は必ずしも自分の考えるような理想の学舎ではなかった。
自分の思いとのギャップの悩みを賢治に相談している。賢治がトシを妹として愛しむように、トシもまた兄・賢治を慕っていた。

賢治の、この妹に対する接し方はまるで恋人かそれ以上であったとも言われる。人により近親相姦的なものを邪推する向きもあるが、しかし、兄妹という単なる関係でも男と女ともいう下世話な噂を離れたもっと人間性に根差した純粋無垢なものであったのだろうと私は思う。

詩人、童話作家、教師、科学者、宗教家など多彩な顔を持つ異才として紹介される宮澤賢二。1926年(大正15年)には農民の生活向上を目指して農業指導を実践するために羅須地人協会を設立している。

1922年(大正11年)11月27日、結核で病臥中の直ぐの妹、トシの容態が急変、仲の良かった兄賢治は押入れに顔を入れて「とし子、とし子」と号泣、乱れた髪を梳いてやった。

そして『訣訣の朝』を詠む。賢治の最大の理解者で最愛の妹だったトシが24歳の若さでこの世を去る折の心情を綴ったものが『訣別の朝』。

 トシの手紙から推測すればかなり真っ直ぐな心の持ち主だったことが伺われる。

「私は人の真似はせず、できるだけ大きい強い正しい者になりたいと思います。御父様や兄様方のなさることに何かお役に立つように、そして生まれた甲斐の一番あるように求めていきたいと存じて居ります。」

学生時代は秀才と言われた兄よりも学業が優秀で、小学校の同級生によると容貌もやさしくにこやかで、だれに向かっても親切でていねいで、ものを話すときの声も実に澄んでいてきれいな人でしたという。

また教師時代の生徒は、物静かでしたが朗らかでユーモアのわかる優しい先生でしたと述べている。
 今にも旅立つばかりの病床のとし子は、いきなり、枕元にあった二つの欠けた陶椀を賢治の胸元に突きつけて、

あめゆじゅとてちてけんじゃ」と叫ぶ。「雨雪を取って来てちょうだい」と叫んだのである。
 この陶椀には青い蓴菜(じゅんさい)の模様がついている。小さいときからこの兄妹は仲よく、この二つの陶椀でご飯を食べてきた。この欠けた陶椀は兄妹の変らぬ愛情の象徴なのである。

 暗いみぞれの中に立って初めて賢治は、妹の真意をさとる。
このまま妹が死んだら、賢治は生涯返すことのできない負債を負うことになる。

妹さえも安心させ得なかった者がどうして他人をしあわせにできるかという思いが生涯つきまとうようになる。そうさせないために、兄の一生を明るいものにするために、泣くような思いで妹は陶椀を突きつけたのだと、賢治はみぞれの中でさとるのです。

 賢治はこの二椀の雪を妹のところへ持って行った。
「これを食べれば、おまへは安心して仏さまのところへ行かれるのだよ」という思いをこめて、この雪を妹に食べさせたのである。その時、とし子はこう云った。

今度生まれて来る時は、こんなに自分のことばかりで苦しまず、ひとのために苦しむ人間に生まれて来たい
と云うこのけなげな妹のために、賢治は祈らずにはいられなくなるのです。

それから約1年半たっても、何を見ても亡き妹が思い出される賢治です。

個ではなくそれぞれの生命現象を、物理化学的な現象としてとらえる考え方や感覚は、「春と修羅」序文にも通じる。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です

自然の風景、人々との交流によって明滅する現象が、自分という存在なのだという。つまりそれを表しているのが「有機交流電燈」の表現となる。
「私という人間は
青い光を放ち続ける 有機(いのち)である
幽霊の複合体(森羅万象のもつ魂)
せわしくせわしく(一生懸命に生きながら)
因果の交流でこの世に命を授かった
私の書く言葉は
心のスクリーンに映し出されたものを
スケッチしたもの
すべてがわたしのなかのみんなであるように
(私の命と宇宙のいのちはひとつにつながっているように)
すべてこれらの命題は心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます・・・この第四次延長とはどのようなことなのか。…高さ、長さ、広さ、これが私たちが認知する3次元空間である。この延長とは時間の概念が入る4次元である。

賢二はこの意味で第3次空間の延長としての時空概念を第4次延長といったのだろう。

第4次元感覚は、人間の知覚を三次元空間から解放し、精神の視界を拡大させ、人生、生命及び死、霊魂、神其の他人間に関する総べての問題を不可解、神秘或は奇蹟から解放し4次元空間に於ける一個の自然現象とならしめるとした。要するに第4次元の観念を知らない人は、知覚の3次元空間に束縛させられている人であり、新しき自由人と云ふことは出来ない。それは単なる時空の問題ではなく、思索による思想力を言っているのだろう。人はこの思想力により見えないものを見たり理想世界を思い描くのである。

換言すればそれは五感を超えた深層意識の世界なのだろう。私たちが物を見たり音を聞いたりできるのは五感が意識に働きかけるからだ。では見えないもの、聞こえないものの世界とは意識の深層にある無意識の世界なのだろう。

仏教ではそれを阿頼耶識といい宇宙意識といっても良いものです。これはあらゆる因果によって形成され、無意識的に世代間を引き継がれていくものとされる。熱心な法華経信者であった賢二の宗教学とアインシュタインの提唱した近代物理学がとりなすものが「第四次延長」というものなのだろう。


まことのことばはうしなはれ

雲はちぎれてそらをとぶ

ああかがやきの四月の底を

はぎしり燃えてゆききする

おれはひとりの修羅なのだ

宮澤賢二は熱心な法華経の信者、仏教徒です。春の穏やかで美しい背景と対比し、激しく乱れる情景。その後に「おれはひとりの修羅なのだ」で締めくくられ、それが何度も波打つようにくり返されるのです。

「修羅」とは仏教の世界観で、六道の1つ。激しい感情や怒り、争いなど、穏やかさや優しさと正反対の意味を持つ世界。賢二自身仏教徒として煩悩を乗り越えたい願いながらそれができない自身のあり方を阿修羅の持つ激しさと怒りと、制御できない自身の煩悩を修羅の苦しみとして表現したのだろう。

妹とし子は病床の中「自分はおっかない顔をしているか」「自分は臭くないか」と母親に聞きます。その場にいながら声をかけてあげられない、賢治の心の中の声が聞こえてきます。

純粋な姿で死んでいく妹と、修羅の心を持ったままそこにいる自分。宗教的な結びつきでも同胞であった妹との死別。悲しみの思いと同時に、自分自身の内面を見つめている賢二がそこにいます。


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