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行動と直観

自己内省的性格の強い私は、自分が今・ここで直面している現実に「なりきる」ようにしている。

 日々沸き起こる雑念を持ちながらも当面の生活に「なりきる」のだ。何らかのことに「捉われ」ているのは程度はあるが普通の人ではよくあることである。

捉われつつも、その不安・ 葛藤を排除しようとせずに、とにかく直面している現実に「なりきる」のだ。

何かに捉われ妄想を持つものは、意識的に自己批判や自己反省をすることではなく、まずは直面している現実に「なりきる」ことであり、 ここから生活のすべてが始まると言ってよいのだろう。

何かに没入している時は文字どおり無我夢中であり、そこでは反省する自我は後退し、主観や客観の合一という状態が実現されている。

苦悩にとらわれていた自分の「とらわれ」 を忘れて何かに集中し、物事を遂行しているという状態が人生を生き生きさせる一つの指標となることは間違いない。

 毎日の生活の中でむやみに苦しんでいた時は、自己内省の時間におおくの時間を割いている時でそれに代わって生活の 行動に「なりきる」時間が増えていくことは、着実に自らの人生態度が建設的になっていくことだと評価できる。

西田哲学に即して言えば、「純粋経験」が現れる時間が生活の中で多くなっていくということである。では、何でもいいから集中すればよいかといえばにそうではない。

極端な話、悪事に徹っしていいとは言えないのである。

つまり「なりきる」と言っても、何に「なりきる」のかという対象の性質が当然考慮に入ってこなければならない。

自らの人間性を深く洞察するのもいいが、他者や生活上の行動に配慮する精神的余裕がないのも困るのだ。

不安や苦 悩を解消することに急であって、自分の存在そのものが根源的に他者によって支えられていることを顧みる余 裕がないからである。

自分が生きている現実世界が歴史的に構成され、自分の生活が他者と物によって支えられているこ とを深く自覚することは、人生にとって重要な意味を有するはずである。

それは、人間としての自分をより広い視点で捉えられるようになってこその立場、西田幾多郎風に言えば「純粋経験」という初期の哲学的立場から「行為的直観」という概念を示唆するものと考えられる。

「行為的直観」が「純粋経験」の立場と異なる最大の特徴は、前者が人間存在の根源的な社会性と歴史性を明らかにしようとしている点だ。

 人間存在を社会性と歴史性において捉えること、つまり時間的にも空間的にも関係性の網の目として捉えることは、人間を具体的実相で捉えることであり、又、自己の閉鎖性・孤立性を打ち破ることでもある。

西田の 「行為的直観」にあって「純粋経験」にはない視点、それは人間を歴史性と社会性において把握しようとする 視点である。

単に一個人の無我夢中、なりきっているという心理状態を描くだけではなく、自分の存在そのものが根源的に帯びている歴史性、社会性を自覚することである。

人間を社会内存在、歴史内存在として捉える 立場からは、個人の孤立的な営みはすべて抽象的な一断面として捉え返されることになるだろう。

人は通常、他者や生活上の行動に配慮する精神的余裕がない。不安や苦悩を解消することに急であって、自分の存在そのものが根源的に他者によって支えられていることを顧みる余 裕がないからである。

自分が生きている現実世界が歴史的に構成され、自分の生活が他者と物によって支えられていることを深く自覚することは、人にとっては重要な意味を有するはずであるとあえて再度いう。

人が頭だけではなく手足を動かし作業するということは一個人の主観をはるかに越えた歴史性と表現性によって物事を実現可能な方向に導く行為であり、人は作業を通じて知らず知らずのうちに、自らの主観的閉塞性を越え出るのです。

日常生活の行動や作業が、このような奥 深さをもっていることを知ることは、人間にとっても、決して無意味なことではないだろう。

一見難解な西田哲学は、そのことに触れている。

「われわれの行為は一面においては、もちろんわれわれの意志に基づく行為であり、われわれの意図を実現する行為である。

しかし、ただそれだけにはとどまらない。われわれの自己自身を実現する行為は同時に、「環境が環境自身を限定する形成作用」とも考えられる。

「環境」という言葉のもとには、単なる自然の環境ではなく、むしろわれわれ一人一人に対して人格的に行為することを迫る客観的世界 — ヘーゲルの言う人倫に比せられ、「客観的精神の世界」あるいは「共同的精神の世界」とも呼ばれている — が考えられている。

われわれの行為は、単に自己自身からではなく、むしろこの客観的世界から発現する。そしてわれわれの行為がこの「客観的精神の世界」を作ってゆく。

換言すれば、われわれの行為を通して客観的世界がそれ自身を完成していく。

このような意味でわれわれは「社会的・歴史的世界」のなかに生きているといえるのだ。

この「社会的・歴史的世界」を西田は「もっとも具体的なる真実在」と考えるのである。
 
「西田はまた、この「行為」が単なる身体的な動作ではなく、物を作ること、つまり「ポイエシス〔制作〕」という性格をもつことを強調する」

「実践ということは、制作ということでなければならない。我々が働くということは、物を作るということでなければならない。制作を離れて実践というものはない。実践は労働であり、創造である。

行為的自己の立場から世界を見るというのは、かかる立場よりすることでなければならない。

参考文献:森田式療法

西洋では、「私」という言うなれば、主語というものは決定的に重要である。[私」という個が自然に働きかけて、自然をコントロールしたり、社会に働きかけて理想社会を実現したりしようとする。

「しかし、東洋、特に日本においては、どこか、「私」を消し去り、無化していきます。「主体」というか主語というものをあまり表面に打ち出さないのです。

日本語では、しばしば主語を省略したり、主語を重視しない、という点に現れています。和歌や俳句でも通常、主語はありません。

一つの情景と、その場に溶け込む詠み手の感情が一体化して切り詰められ言葉に乗せられるのです。

むしろ、私を消し去ったところに、自然と一体となったある情感や真実が浮き出されていくのです。

哲学者西田はこう述べる。

主観と客観の統一、「純粋経験」を振り返るときに初めて「私」というものが出てくるという。「私」が「経験」するのではなく、「経験」が「私」を生みだすのです。経験があるからこそ、それを反省的に理解して、そこに「私」がでてくるわけですと。

「個人あって経験があるのではなく、経験があって個人がある」というわけです。「私」が主体として先行するのではなく、「経験」がそのままあり、「行為」をすることに付随して「私」が出てくるという発想です。

「私」という主体や自己意識があって、行為を組み立てるのではなく、ただ行為のなかに自分が表現されているだけ、と考えている。

西田は「物となって考え、物となって行う」といいます。そしてそれを「行為的直観」ともいいました。

西田のいう直観とは、何ものかに憑依され、突き動かされ、そこにもはや「私」は「我」の意識が入る余地がないような行為のなかでこそ、人は行為や存在の意味を直観として把握する、ということなのです。

芸術家はある形を生み出すとき、そのあるものに触発され、それに肉薄しようと「私」を消し去って、ただひたすら腕を動かしているのです。

しかし動かすことでまた「あるものが」が直観されてくるのです。ここでは「型を生む」という行為と「もの」の本質直観は決して切り離された別々のものではなく、このような行為的直観にあっては、まずは自我を消し去り、無にならなければならない。対象と自分を一体化しなければならないのです。
 それが「型になる」ということです。

その時に、いわば意識の奥底にある「鏡」(無の場所)に、その「もの」の本質が映し出されてくるのです。「もの」を映し出すということは、また、「もの」を通して「私」を映し出す事に他ならないのです。

「西田のいう直観は何ものかに憑かれ、それこそ突き動かされ、そこにもはや「私」や「我」の意識が入る余地がないような行為のなかでこそ、人は行為や存在の意味を直観として把握する、ということなのです。

行為的直観は個としての人間の側に焦点をあてたものである。個としての人間は抽象的な人間としてではなく、あるいは生物的存在でもない。

社会的・歴史的な存在であるとして世界に実践的に関わっていくあり方なのだ。

私たちの身体は単なる生物的な身体ではなく、それは社会的・歴史的身体として、世界と実践的に関わり続ける身体である。

直観が行為を生み、行為が直観を生む。そういう行為的直観は、 自己否定をとおして成立する。

自分を否定して物自体となって 物を見るとき、行為にかりたてられる。自分がないのである。主観が あって客観と合一というので はなく、自己、主観がないのである。

自己がなくなることによって行 為的直観があるのである。自己は、点ではなく、すべての対象や作用 を内に包む場所的なものである。自己なくしてすべてを包み映すものが自己である。見られるすべてと自己は対立していない、自己なき自 己である。


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