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小林秀雄

小林秀雄は、太平洋戦争末期から戦争直後にかけての無常と言う事(1942~43)、モーツワルト1946)で、近代の観念に影響されない歴史や伝統の中にその本質を見出し、モーツワルトは天才の無垢さを「ト短調」というキーのなかに聴き分けて、自身の精神の高さを示した。これ以後文壇文学から遠ざかり、稀有の評論家としての地位を築いた。

ドフトエフスキー、ベルグソンなどとカイゴウし、その最後に辿りついたのが宣長だった。

昭和40年(1965)に「新潮」6月号に『本居宣長』の連載を始めて、実に11年にわたってこれを書き継いだ。
そのときですでに74歳。さらに3年後、『本居宣長補記』の連載をして78歳まで書き、その3年後に青山二郎や河上徹太郎を追うように亡くなった。

小林には「民族」という視点が欠けているという。
 
松岡正剛氏によれば、小林には民族とか日本人というよりも「自己」という言葉のほうが広かったという。
彼の精神は国家や民族を超えるばあいのほうが多く、自己のほうが国家より大きかったとの指摘だ。
 だから、つねに「自己」を問うてきた。
それは小林がすべての批評を通じて最も大切にしてきた節操。それゆえ、小林は自己という思想の一番深いところを最後の最後になって、十数年をかけて宣長に向かいながら考えようとした。そう見たほうがあたっているという。

本居宣長 は、「生まれながらの真心なるぞ、道にはありける」といい、人間の自然な感情を肯定するとともに、「もののあわれ(人が物事に触れた時におこる素直な心の動き)」を知る心ある人として真心に従って生きることが、人間本来のあり方であると説いた。

小林秀雄は「『あはれ』とは、嘆きの言葉であり、誰でも、何かに感動すれば、あゝ、はれ、と歎声を発する。この言葉が、どんなに精錬されて、歌語の形を取らうとも、その発生に遡って得られる、嘆きの声といふ、その普遍的な意味は失はれる譯がないともいう。

これが、宣長の「もののあわれ」の思想の基本の考えなのだ。
宣長は、其処から出発して、歌の情趣のうちに閉じ込められていた「あはれ」といふ言葉を、生き生きと使われている日常語の世界に引き出し、其処で、その意味をできるだけ拡大して見せた。

日本人の国民性というか民族性のようなものは、先ず中華文明、その後の西洋文明を取り込み発展しようとしましたがうまく行かなかった。
然しながら中華文明と西洋文明とは否応なく日本の大和心に根差すもののあわれの文化に重層してくる。

それに抵抗するためには、近代文明の方法をとらなければならず、近代文明に長ける以外にありませんでした。

日本人の伝統的な存在論は、西洋ならびに大陸・中華の二元論ではなく、道理というものとの重層的多元関係なのです。

日本人の行動や決断は思慮と思いやりにあふれたものであるが、反面どうもはっきりしない面がある。宣長はそれを、もののあはれの理論を使って『やまとごころ』として明確な思想にしようとしたのでしょう。

しき嶋の やまとごころを 人とはば 朝日ににほふ 山ざくら花

この歌は、宣長が還暦六十一歳の年、詠んだ歌である。
「やまとごころ」とは、日本人が日本人らしく日々を生きるについての知恵や能力を言った平安時代の言葉であり、朝日に照り映える山桜のように美しい心だ、つややかな心だ。そういう歌だ。

この意味を曲解した軍部は多くの若者を死に追いやった。その意味を小林秀雄は敢えて触れていない。
本居宣長はある意味に於いて近代日本が生み出した知の最高峰である。西洋哲学でもなく、漢籍思想でもない、そこに挑んだ小林秀雄もまた近代日本が生んだ知の最高峰なのだろう。

小林秀雄が長年を費やした本居宣長論を私ごときが触れても大した意味にはならないが宇野千代との絡みから次回小林秀雄を書くと言ってしまったが彼女の書いたものからは小林秀雄を語るエピソードがなくこんな結果に終わった。
 


 

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