見出し画像

如来蔵思想 仏教の一元論、二元論の狭間

大乗仏教において如来とは
ゴータマ(釈迦)は悟りへの道は示したものの悟りそのものが何かという点には言及しなかった。

ゴータマが実践していたのは、「つとめはげむ道」といって、自己を制することに「つとめはげんだ」こととされている。ただ、それによってさとりを得たとかそういうことではなく、自己を制することのうちに悟りがあるとした。

自己を調御し、悪魔を寄せ付けず、清浄な行いを久しくし続けるということが、悟り「つとめはげむ道」(悟りの道)であるとされた。

仏教の革新運動とも呼ばれた大乗仏教の萌芽が紀元前後生じたとき後の如来蔵思想の本質である如来という考えも生まれてたのであろう。

如来とは、悟りを開いた人のことをさす言葉です。

人間も悟りを開けば如来になれるといわれてきたのが大乗仏教です。
現在如来といえば釈迦如来、阿弥陀如来をを思い浮かべる人が多いのだろう。

仏道成就を目指す人を「菩薩」と呼び、悟りを完全に開いた人を「如来」と呼びますが、特定の固有名詞のようなイメージがありますがそうではなく、真の悟りを開いた人全般を指します。

如来蔵思想の成立
如来蔵思想の如来蔵の原語(サンスクリット)は tathagata-garbha で 如来を胎児として宿すもの という意味である。

すべての衆生は如来を胎児として蔵(やど)しているという主張である如来蔵思想は『如来蔵経』に始まり『不増不減経』『勝鬘経』によって継承され、『宝性論』にいたって組織体系化されたとされる。

また、大乗の『涅槃経』では如来蔵を仏性ということばで表現し、その「一切衆生悉有仏性」の経文は有名である。 これらの思想は、後の密教の成立に大いに寄与し、また中国や日本の仏教に深い影響を与えた。

法華経』と如来蔵思想
歴史的事実はないが釈迦が生前最後に説いたとされる『法華経』では、すべての人間は仏の子供で、すなわち仏の遺伝子を持っていると説く。そこに、如来蔵の萌芽をみる。

部派仏教(小乗)と如来蔵思想

如来蔵思想はまた部派(小乗)仏教の大衆部にある客塵煩悩(agantuka klesa)の考え方が影響している。煩悩は心に本来からそなわったものでなく、もともと心は浄く、煩悩が塵のように付着したにすぎないものだという説である。

在纏位(ざいてんい)の法身
如来蔵は如来を如来たらしめている本性として法身(永遠なる宇宙の理法そのものとしてとらえられた仏の姿)にほかならず、ただそれが煩悩を纏(まと)っているため、まだ如来のはたらきを発揮出来ない状態にあるという考え方、すなわち、人間の本性は完全な仏であり、煩悩に覆われているから仏と成らないだけであり、煩悩という塵の層を除けばそこに完全な仏があるという考え方である。
 これが仏教として容認できるものなのかどうかと言う事、即ちこの思想により最低限の簡単な修行や規範がおざなりにされかねないということが問題視されたのだろう。

如来蔵思想は仏教か
日本では如来蔵思想が「本覚思想」として仏教の本質をあらわすものと誤解されてきた。それはつい最近までにも色濃くあった。

日本の仏教宗派の多くは鎌倉仏教であり、それらの開祖は比叡山で勉学し、そのころの比叡山は、中古天台本覚思想が蔓延している時期である。たとえ祖師が本覚思想に染まらなくても、その後の弟子たちが本覚思想にとっぷりつかり、祖師に仮託した偽書をあらわすということも行われた。そして、それにまつわる口伝が一子相承によって相伝されて来て、未だにその呪縛を信念としているむきもある。 あまりにも、東アジアに影響を与えた思想であり、この問題は現代までの日本仏教や今後の仏教のあるべき姿を考える上で大変重要なことである。

大乗起信論
仏教の論書。インドの馬鳴(めみょう)作と伝えるが、中国人の偽作とする説もある。大乗仏教の中心理想を理論と実践の両面から説く。「起信論」とも。

「大乗」とは「衆生の心がそのまま大乗である」と述べられていることから私のような平凡な人の心の中にこそ仏性がある」という「如来蔵」思想を説き、これらへの信仰(大乗起信)を起こさせるという意味合いがあったのだろう。

仏教用語に真如がある。あるがままにある状態のことで、この世のすべてのもの (諸法) の根底にある唯一無二の絶対の実在界のあり方は「その如くである状態」すなわち真如としか表現のしようがないという意味合いで使われる。また,私たちの心の本来の清らかな状態である自性清浄心を真如と呼ぶこともある。インド大乗仏教においては、あらゆる法に内在する共通的属性が真如なのであるが、『大乗起信論』においては、あらゆる法が真如なのである。

インド大乗仏教は二元的世界観である。あらゆる法と、真如との二元にもとづいて、あらゆる法を実見する凡夫と、真如を実見する聖者との区別がある。それに対し『大乗起信論』は一元的世界観である。そこには凡夫と聖者との区別が曖昧になる危険性があった。

『大乗起信論』そのものは修行軽視ではない。たとえあらゆる法は一なる真如であるにせよ、そのことは、戒を始めとする修行によってあらゆる法を一なる真如に還元しないかぎり、本当にはわからない。それゆえに、修行軽視を戒めているのだ。

大乗仏教の偉大なる思想家、ナーガルジュナ(龍樹)の「空」の思想あたりからいわば大乗仏教が展開してくるがその後説かれる大乗仏教の基本ともなる『大乗起信論』では「如来蔵」思想が説かれそこにはある種の「実体」が認められそれは本来の仏教ではないとされたりもする混乱のもととなった。

自我と真如、両者を否定即肯定とした関係性に捉えれば無自性としての仏教に整合するが真如を実体に立てれば、それは仏教ではないと批判の対象となる。

そこに、AはA非ずしてAであるといった一元的な立場の保持、即ち、即非的な判断が必要となるのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?