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明治維新とは恨み返しの戦争だった

前書き
先日静岡の映画館で峠 最後の侍という映画を見に行った。
幕末の動乱期を描いた司馬遼太郎の長編時代小説「峠」を、「雨あがる」「蜩ノ記」の小泉堯史監督のメガホン、役所広司、松たか子、田中泯、香川京子、佐々木蔵之介、仲代達矢ら日本映画界を代表する豪華キャストの共演で映画化したもの。

徳川慶喜の大政奉還によって、260年余りにも及んだ江戸時代が終焉を迎えた。そんな動乱の時代に、越後長岡藩牧野家家臣・河井継之助は幕府側、官軍側のどちらにも属することなく、越後長岡藩の中立と独立を目指していた。藩の運命をかけた継之助の壮大な信念が、幕末の混沌とした日本を変えようとした映画であった。

この映画自体は悪くはなかったが歴史に翻弄される日本人を描いたのに明治維新の状況説明が浅かったのは残念だった。

当時、日本全国の藩が佐幕か勤王かで悩んでいた。情報不足の中で保守的な北陸、東北弱小諸藩が反新政府軍として戦わざるを得なかったのは何故なのかその描写が今一の感じだった。
そんな思いを抱きなが映画館を後にした。
私は明治維新という討幕運動を関ケ原の大戦に端を発する薩摩長州の長年の恨みによる仕返しであったと考えていた。それが何故なのか主役である薩摩、長州の立場から反すうしてみた。

関ケ原での長州の立場
長州
毛利家は西軍として関が原に参戦、戦前は120万石の大藩として、中国地方全体を領土として持っていたが、敗戦で領土は山口と広島に縮小され33万石に削られた。
東軍に内通していた支藩の吉川広家には岩国領3万石が与えられた。

これで毛利家全体として36万石は残りましたが、それ以降内通していた吉川家は毛利本家から無視され冷遇され続けて来た。

関ケ原で本家筋にあたる毛利秀元が家康本陣を後ろから突いていれば、戦局は全く変わっていただろう。
分家の吉川広家にその突撃路を塞がれ、家康本陣への突撃が叶わず、敗戦後毛利本家には過酷な現実が待ち構えていた。

もし毛利秀元が吉川に邪魔されずに家康の本陣を後ろから突いていれば、西軍も勢い立ち怒涛の如く東へ動き、挙句には日和見的だった小早川秀秋も裏切りはしていなかっただろという読みは、多くの戦略家が指摘するところだ。
毛利家の悔しさは関が原での戦いが消化不良であったばかりか、結果の減封が悔しく正月年賀の席では、打倒徳川を家中で秘密裏に誓ったという。

九州では、雄藩であり東軍に味方して加増された熊本藩や福岡藩からは幕末の討幕運動は起こってはいません。

毛利の長州藩は減封による怨念から幕府を困らせようとする意味もあったのでしょう、過激な尊王攘夷へ走ったり、外国船を砲撃したりして西洋4か国と戦争もしています。

同じく西軍についた薩摩を見てみよう。
関ケ原の始まる直前、成り行きから石田方の西軍についた島津勢は、西軍総崩れのなか果敢に戦った。島津義弘率いる島津勢は、家康の本陣の正面突破をはかり多くの犠牲者を出しながら伊勢路への退却に成功した。

日本の武士団で最強との呼び声のある薩摩が中途半端な勢力で参戦し、挙句十分な戦果を上げぬまま戦場離脱したのは、島津義弘にとってはこの上ない屈辱であった。
戦後家康から幾度かの攻撃を受け、撃退したものの徳川には言い知れぬ恨みを抱いた。
薩摩処分は徳川にとっては十分な処罰とはならず和解したものの島津氏への嫌がらせは続いた。
だからこそ幕府に対しに対する恨みは沈潜した。

薩摩に対する嫌がらせの第一は参勤交代である。江戸鹿児島間は遠く財政負担は膨大であった。それが藩財政を弱らせる嫌がらせに他なりません。
その嫌がらせは幕末の戊辰戦争まで積もりに積もっていくことになったのです。

その他の嫌がらせの代表例は他ならぬ「宝暦治水」です。
江戸時代中期、宝暦4年(1754)2月~宝暦4年(1755年)5月まで、 濃尾平野の木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)で治水事業が行われました。

これは、「宝暦治水」と言われています。 江戸幕府はこの事業を薩摩藩に工事普請をさせました。
当時の薩摩藩は第7代藩主「島津重年」の時代。 当時すでに66万両もの借入金があり財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出しました。

しかし財政担当家老であった「平田靱負」が強硬論を抑えて、薩摩藩は治水事業を請け負う事を決定しました。 しかし治水事業は過酷を極め、 多大な借入金(借金)、重労働、赤痢の発生。 極め付きは幕府側の役人からの理不尽な嫌がらせでした。

工事中の堤を幾度も破壊され、食事も重労働にも拘らず一汁一菜と規制された。
更に蓑、草履までも安価で売らぬよう地元農民に指示を行ったのです。 この様な工事によるさまざまなトラブルにより、薩摩藩士たちは幕府への抗議の為やトラブルの責任を取らされ、次々と自害し、またさせられる事態になったのです
しかし平田靱負は、幕府への抗議はかえって幕府に難癖をつけられる可能性がある事を恐れて「自害」とは報告しなかったと言います。

そして、 「宝暦治水」は1年3か月を経てついに完了しました。 工事中に薩摩藩士が51名自害、33名が病死しました。
そして平田靱負は現地より工事完了を書面にて薩摩の国許へと報告しました。 そしてその翌日、 多く犠牲を出した責任を取る形で総責任者の平田靱負は自害して果てました。

後の世に反旗を上げるかもしれないと思った幕府は何かにつけて薩摩の弱体化を図ったのでしょう。
この様な長年に渡る数々の不満・恨みが薩摩藩を幕末の倒幕へと突き動かしたのは長州藩と同じものがあったのでしょう。

幕末生麦事件を起こした薩摩は、薩英戦争を始めました。薩摩は英国の圧倒的な軍事技術に負けたことを教訓に英国に接近を始めたのです。

一方の英国は当初は簡単に謝罪するだろうと考えていた薩摩が本気で戦闘を開始し、艦隊の旗艦が被弾し艦長らが死亡した上、謝罪などしない薩摩に幕府以上の強さやブレない考え方に驚きを憶え、信頼に足りる藩として認め始めたのです。

生麦事件は薩摩藩の意地もあったのでしょうが陰には幕府を困らせようとの魂胆のあったのは長州と同じです。
やがて薩摩は英国から軍艦を買い、強国、英国との貿易を幕府には内緒で始めたのです。 薩摩はこれまた幕府に内緒で19名の若手藩士を留学生として英国へ送り込み藩費で学ばせたのです。

大きく言えば、日本はこうして攘夷から開国へと移っていきました。

やがて富国強兵を成し遂げた薩摩は、国論を統一して関が原で ちゃんと戦っていれば こうならなかったという自戒の思いから、徳川打倒が隠された国論となり明治維新へとつなげていったのです。

長州は 減封で実収が10分の1になり あまりの財政難に当主・毛利輝元が藩の返上を訴えましたが 懲罰の意味もあるので却下され 藩財政を立て直すのに 相当の苦労をしています。
西軍総大将の毛利輝元が大阪城に居座り最前線で指揮をとらなかったことも毛利の自業自得といわれたが、 だからこそ次のチャンスは ちゃんとやるぞ 的な気持ちが明治維新での戦いだったのでしょう。

その気持ち(次は失敗しないぞ)を維持するために 藩主と家老が毎年・元旦に 倒幕の決意を確認しあう秘密儀式があったほどですが、薩摩の方は 「関が原の恨み」 は 完全にスローガンになっていて、 若者を鍛えるためのキャッチフレーズ化していたのです。

一方幕府の方では 島津・薩摩を警戒し続け あくまでも潰そうと狙い続けていました。
幕府隠密が多数潜入し殺されていますし、先に挙げた 公儀御用も 色々いいつけて 藩財政をピンチにさせようとします。  そんなこんなで 関が原から264年後にリベンジすることになるわけです。
もし 幕府が 関が原の敗者を いたずらに刺激しなければ 明治維新は違う局面となっていただろうと思う。

明治維新を推し進めたのは「勝者」である薩摩・長州の下級武士たちであったが、薩長は常に協力して近代日本を建設したわけではなかった。

権力闘争を繰り返して派閥を生み、その構図は戦争の時代へとつながっていく本となりました。映画、峠で糾弾していたのはこんなことだったのです。
その過程は、函館まで続く戊辰戦争の見せしめとして長岡藩のような悲劇も生まれていったのです。

開国による通商により当時勃興した西欧の資本主義経済の荒波を受けた日本の経済は、通貨下落、インフレ等、ほころびを見せ始め各藩の経済収支は大半が赤字となっており、もはや徳川が退陣しなければ収まりがつかない現状となっていた。
世直し気分は、将棋崩しのコマのように一つのコマが抜けても瓦解する当時の日本の構造不良に向けられ、それが証明されたのが軍制改革の成否を問われた鳥羽伏見の戦いであった。

強力艦隊を大阪湾に待機させフランス式歩兵を含む幕府は兵力差からして負けるはずではなかった。

一時は天皇を下野させ京都から撤退しようとした薩長の戦況を覆したのが最後に踏みとどまった寡少であるが訓練された英国兵制の歩兵と最新武器であり、錦旗であった。
承久の乱で逆賊のそしりを負いながらも勝った鎌倉武士ほどの意気込みのない幕府勢はたった一本の錦旗の御旗で崩壊。結果、勝つつもりのなかった薩長に思わぬ勝利が転がり込みこんだ。

その後の将棋倒しが直接的な明治維新だったのだろう。
長年の恨みつらみから始まったのが、明治維新といわれる。

歴史を作るのが人間であれば、その思いで歴史が進行するのは当然であろう。
高邁な理念だけが歴史を作るのではない。

日本の夜明けはある意味で棚ぼた。
早速新政府軍と威張ってみたものの、軍資金は乏しく豪商からの借金を踏み倒したり日和見する各藩には兵の動員と軍資金を強要して理不尽を通した結果さむらい精神を踏みにじる薩長が私利私欲で起こした戦争と呼ばれたのも無理からぬことであった。

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