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手紙をいただいて

心が先か物が先か  

物質は重力・電磁力・強い力・弱い力の4つの力により存在しています。しかし、私の身体は心で手も足も動かすことが出来ます。心、意識が身体という物質を動かすことが出来るということです。

そして、この社会は、精神の意思により動いています。この様に、社会の動き一つとっても物質のみしか存在しない事への疑問や物質は意識に先立つものという唯物論にも納得出来ないものとなります。

京都にあるFAS協会の論客である熱海市在住のI様は、現役時には大学の教員でありヨーロッパにFAS禅の指導にも出かけたことがある女性です。

そのI様から、北鎌倉東慶寺で開かれる禅関係の美術展の入場券を送っていただいた。以降ここに書いたものは、その礼状やら私の現状を知らせた手紙の下書きです。

「今この手紙を静岡県立長泉の県立がんセンターの病室で書いています。
現在、体調は悪くないのですが検査で胃に癌が見つかり手術を受けるためです。昨年11月突然心筋梗塞を発症し九死に一生を得ましたが、そのリハリビで血栓防止の薬を服用しているため手術中の出血を警戒する地元病院から癌専門の静岡癌センターを紹介されたのです。

お気に入りの病院といえば可笑しいのですが、とても設備が良く屋上階には大浴場もあり、周囲にはバラ園が整備され何よりもきれいな富士山が窓越しにその秀麗な姿を見せてくれることです。

優秀な医師が手術を担当してくれますので病気になったことはともかくこのような病院で治療が受けられることは首都圏のように身近に有名な大病院をもたない静岡県民にとって幸せと感じています。

手術前は閑ですからWebへ投稿するためこんなことを書いています。「I様にはご笑止かもしれませんが美術展の入場券拝領のお礼と同封の手紙へのご返事になればと書き送ります。

『永遠ということ』
大きな手術を受ける前ですから少しセンチメンタルな気分になり、人の生き死にを考えます。

もしこの手術を契機に自分が死んでも親族や親しい友人の心の中に生き続けるだろうことを除けば、合理的に霊魂とか最後の審判を否定すると、死は全ての終わりで何も残らない唯物主義となります。

特別な信仰を持たない私のような者が理性に矛盾しない「命の永遠性」をどのように考へたらいいのでしょう。

人の身体は死後無機物へと還元されるのは自明の理ですが、そうした肉体的な死をもって生命の終わりとするのもあるし、再び生命が復活したり、何か他のものに転生する宗教的な死を認めるという考えもあります。

前者は唯物論的であり、後者の生命の復活はキリスト教的で仏教的なものが輪廻転生論です。

つまり、霊魂不滅説と仏教ヒンズー教等で説く輪廻説の二つの考えになるのです。

この二つは生命の永遠性という意味においては共通していています。
仮に宇宙の背後にあるものを「精神的実在」と名付けたら、すべての人間のカルマ(行為)がその精神的実在に関係を及ぼすと考えます。

ヒンズー教では霊魂とは、肉体に宿ってこの世に生を享ける以前から、無限の長きにわたって存在していて、この世での肉体における死の後も無限に存在し続けるというものです。

上座部系の仏教も、このヒンズー教的見解と一致していますが、ただ輪廻転生は現世での人生における精神的努力によって止め得るとする点で違っています。

一方、キリスト教では、霊魂は母親の胎内に肉体が宿る瞬間に、神によって創造され、ひとたび創造された後は死後も無限に存続していくとしています。

このキリスト教の不滅の概念は、ヒンズー教的概念よりも合理性に欠けるように思われます。

私のこの世での行為は、必ず倫理上の結果をともない、行為の善悪が宇宙そのもの、即ち『精神的実在』に何らかの影響とか痕跡を遺すであろうと考えます。

その影響こそ、この世での人生に正反いずれかの価値をもたらすものであり、それ故、人生に意義が生じるのだとも言えるのです。これが過去幾多の論争を経た仏教的な輪廻転生論を現代的に受け止めることではないでしょうか。

意識が素粒子レベルのエネルギーであるならば、自分の精神とか意識エネルギーがこの宇宙的な精神的実在へ帰納し所縁に応じ再び質量化’(形)する可能性があると思うのは、電子の奇妙なふるまいをみて、電子に意志があるとする一部の現代物理学に沿った合理的な考え方なのかもしれません

私のこの世の行為が電子の一粒一粒に記憶され後に質量化(形あるものへと)いう結果を招くのであれば、遍く宇宙に四散した個々の私の電子が全体で一個の意志を持つ更なる個体として集合し、振る舞うこともあるのだろう。

電子の意志は当然生命現象を担っている。電子は自分の進むべき未来を自ら決定し、ひいては個体の未来を決定しているという点で生命現象の一部である。

当然素粒子からなる細胞には意志が有り、それぞれの意志で共生する細胞が命としての個体を形成しているならば、電子に意志が有るという帰結は古典的ではない輪廻転生論になるのではないかと思うのです。

当然私の死後の命も再生、派生するかもしれないという考え方なのです。
であれば、自分自身の責任を自覚し主体性を持ち今の世を生き抜かねばならないのです。

FAS協会の『風信―注』の夏号に時間について道元の時間論を有事の巻をベースにした一文を投稿しました。何かの折、感想をいただけたら嬉しいです。

お送りいただいた美術展の入場券ですが手術前ですから術後の結果が知れません。利用させていただければ嬉しいのですが無駄になってしまうのかもしれません。悪しからずご了承ください。

美術展会場鎌倉東慶寺前の円覚寺参禅道場居士林へは若い時分座禅に通った懐かしい寺でもありますし、鎌倉自体、東京で生活していた時、遥か武家政治時代や元寇にちなんだ歴史を訪ねた散策の地でもあります。行ければいいのですが。


注―FAS協会、京大の文学部教授で禅者でもあった久松真一先生が主催した近代禅の学究グループ。

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