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不思議なこと 石になった生命

世の中は不思議に満ちている。カルト的なことを除き超常現象、潜在意識に根差す命の不思議などは、その代表だろう。

古世代から生き延びてきたシアノバクテリアという不思議なバクテリアがいる。もっとも古いバクテリアの一種といわれている。藻に寄生しながら層状に堆積し成長してストロマトライトという岩石になったという。

現在でもオーストラリアのシャーク湾など限られたところに「生息」している。岩石が生息するという不思議感なのですが、この岩石では表面にいるシアノバクテリアが日中は光合成して酸素を作り出し、夜は堆積物(泥)の表面を粘液で固め岩となるようです。こうしてストロマトライトは岩石として少しずつ大きく成長していったようです。

地球最初の生命体は、微生物マット、つまり、単純構造の有機体が日当たりの良い浅瀬から大量に発生し、層を成していたことが示されている。旧い世代の死骸の上に砂や沈殿した土や泥が積もり、新しく生まれた世代がその上で繁殖した。長い年月をかけてこれを繰り返していくうちに、ストロマトライトという層状の岩石の柱が作られていった。今でも世界各地でこうした不思議な有機体の生きた標本を見ることができる。最も有名なものが先に上げた西オーストラリア州のシャーク湾にある。

酸素を発生するような光合成は、シアノバクテリア(ランソウ、ラン藻)のような原核生物が初めてで、このように無機物から有機物を合成する能力を獲得することによって、生物は自ら栄養を作り出すことができるようになった。

それまでは、自然に化学合成された有機物を利用するしかなかった。つまりつねに食糧危機の不安があったのだ。

光合成の能力を獲得したおかげで、自らの体を作ることができるようになったばかりか、他の生物にも利用されることになった。こうして古生代を生きる生命体の食糧危機は一気に解決していった。

原初の生命体の急速な進化を助けるようなダーウィンの自然淘汰説を超えるほどの原理があるのかないのかも不思議の一つである。

その内の一つは、宇宙から「スターター(初心者用)キット」一式が届いて地球上の生命が活動し始めたという説で、生命の基本構成要素、つまり、複雑な有機化合物や、ことによっては細胞そのものが宇宙に広く散在していて、それが彗星や隕石の内部で超凍結状態のまま宇宙から運ばれて来たという説だ。

こうした生命の基本構成要素が幸運にも地表に着陸して、その土地が生命維持可能な環境だと判断できたら、そこで生命活動を始めたという。

先のストロマトライト(stromatolite)は、藍藻(シアノバクテリア)類の死骸と泥粒などによって作られる層状の構造をもつ岩石のこと。特に、内部の断面が層状になっているものを指す。

ストロマトライトは藍藻類と堆積物が何層にも積み重なって形成される。

藍藻類が砂や泥の表面に定着し、日中に光合成を行う。
夜間の休止期には、泥などの堆積物を粘液で固定する。
藍藻類は呼吸するために上部へ分裂し、翌日には再び光合成を始める。
この繰り返しで、ストロマトライトは徐々にドーム型に成長していき、成長速度は非常に遅く、1年に数mm程度しか成長しないという。なお、ストロマトライトの断面にある縞模様から、当時の一日の長さが推測できるのだ。そこから問うこの地球の自転速度は現在よりだいぶ早かったという。

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このような話を書こうと思ったのは、私がNoteに書いた生命の発生と過程への書き込みがあったからである。

「何故シアノバクテリアはが藍藻類や砂泥の表面に定着し、日中は光合成を行い、夜間の休止期には、泥などの堆積物を粘液で固定するのは、どうしてなのでしょうか。不思議ですね」というコメントだった。

なるほどなぜこんな行為を脳もないし神経を持たない原生バクテリアが行うのは不思議だ。

話は飛ぶが免疫を司る私たち人体の白血球も不思議だ。白血球は一つの細胞から分化した。しかし、何故同じ細胞から分化発生したリンパ球はその姿、形、役わりがまったく違うのかも不思議だ。誰かの指令なのだろうか。

その様な観点から一つの細胞から様々な細胞に分化してきた人体というものの不思議さは、専門家でなくとも不思議さを超越している。

先ず白血球は何が毒性を持つ異物か侵入者かを事前に知っている。そしてその侵入者を食べ尽くすからその毒により、自らも死ぬ。自己犠牲的死のそれが膿だ。膿が悪さにならないように膜で包み排出する。全体を生かすために必要な死があるのを知っているかのような不思議さが残る。

電子に意志が有るとする進化論。 ここに一つの論文がある。立命館大学理工学部の山田廣成氏の論文だ。

『生命現象と言えば様々に指摘できる。例えば、呼吸し代謝を行うのが生命現象である。分裂して子孫をつくること、死に至る寿命を持つこと、雌雄が存在すること、進化する等々があり、これの総称が生命現象である。

私は量子論に基づき電子に意志が有ることを導いているが、電子の意志は当然生命現象を担っている。電子は自分の進むべき未来を自ら決定し、
ひいては個体の未来を決定しているという点で生命現象の一部である。こうして生命と非生命の境界は消失した。」

電子には波動性と粒子という二つの要素を持つことは、つとに知られている。ではなぜ「波動」ということになるのか。それは電子が集団となった時に、干渉などの現象が現れ、それゆえに「波動性」をもつというわけです。

 当然ながら、これが電子ではなく、意志を持つ人間であれば、互いに干渉しながら影響するので、統計的に処理すれば、結果として生じた現象において波動性があるものの、それは統計的なふるまいであって、実態を有する人間そのものが波動だという結論にはなりません。これは、いわゆる「渋滞」などの現象で日常的にみられることです。集団行動の予測が、物理的にシュミレーションできることからも理解できます』

・・・小山医療クリニックの記事から転載・・・『それでは今度は、視点を反転させて電子が人間のように、個々が意志を持っていたらどうなるかと思考実験したのが、山田先生の理論展開となります。
 すると非常に難解な、モノでもあって波でもあるという「量子の二重性」という概念を持ってこなくても、電子同士が意志をもって対話していたとしたら、結果として「波動性」を持っているように見えるというわけです。

それゆえに量子力学において基礎的な「波動方程式」は、対話方程式もしくは干渉方程式と呼ぶべきだと、山田先生は主張されます。(人であれば個人と社会をわけて考えるのは確かに当然なことです)
 つまり電子が意志をもつという考えを受け入れることができれば、少なくても量子力学のもっとも理解しにくい難所を、クリアすることが出来るわけです。「教える」という立場においては、この便宜も非常に重要なことだということになります。』

・・・山田廣成氏・・・『細胞には意志が有り、それぞれの意志で共生する細胞が個体を形成しているという発想は、電子に意志が有れば当然派生する考えである。新しい進化論は、電子に意志が有り、細胞に意志が有ることをどの様に組み込むかが重要な課題となる。

進化に系統があることは、今日誰もが同意することであり、DNA の発見により、それは非常に確かなものになった。

しかしながらダーウインは進化が起こる原因を特定しなかった。そこで、突然変異と突然変異により発生した優秀な種が、劣性の種を淘汰したという
のが主な見方だ。

しかし、量子力学の意味が明らかになった今、この進化論は本当に正し
いだろうか? 淘汰が起こるのは自然の摂理だろうか?
そもそも進化が適切な方向に進むと考える理由は何処にあるだろうか? 突然変異で起こる進化が他者を淘汰する結果、それは常に正しい方向に進化するという保証があるのだろうか?

 強い種が誕生することが進化だろうか? 突然変異を原動力とする進化はそ
こが疑問だ。一方、意志による進化は何故起こるか? 種を保存し永続するために起こるのではないだろうか? 他者を淘汰するために進化するだろうか? 共存するために進化するのではないか? 自然環境が激変するとき、変化に対応するために進化するのではないだろうか?

ダーウインは、新しい種が突然変異で生まれ、これがたまたま環境に適合して繁殖し、古い種を駆逐したと言っている。しかし長い自然史を見ると、種はむしろ共存している。

自然のサイクルの中で、捕食する種と、捕食される種が有るが、捕食種が捕食される種を絶滅することは無い。絶滅させたら、自らも滅びることになる。多くの種を絶滅させたのは人間である。人間がもたらしたあまりにも大きな環境変化が種を絶滅させ、現代にも引き継がれている。

下等生物では、抗生剤に対抗してどんどん強力な菌が繁殖している。しかし、これは突然変異だろうか? 菌が自らを意識的に変化させたということが無ければこれほど迅速に、抵抗力のある菌は生み出されない。粘菌は単細胞生物だが見事なネットワークを示す。種として存続する道を選び情報を共有している。全ての個体は、私たち人間が思うより遙かに優秀である。小さな脳の小鳥でさえ、人間を認識して人間との対話を試みる。粘菌は、互いに共同して社会を作り、まるで全体で一個の意志のある個体のように振る舞う。


恐竜の或る種が自らの意志で空を飛ぶ訓練をして鳥になった。カバの或る種が自らの意志で深海へ潜る訓練をして鯨になった。彼らは自らの意志によってその能力を獲得したと考える方が妥当である。突然変異でインテリジェンスを獲得することはあり得ない。人間が日々なしている様な努力を、鳥や鯨が行わないと思うのが不自然である。突然変異で鯨が誕生し、突然変異で恐竜が空を飛ぶようになったと思うのは拙劣である。

各個体の意志により、たゆまぬ努力により獲得した進化である。意志の概念は極めて重要なかつ必要な21世紀の概念である。
意志で進化する進化論の研究を期待したい。』・・・

物理で有名なスリット実験では、物の究極である量子(電子)は、観測しないでおけば、Aのスリットを通った状態と、Bのスリットを通った状態の2つの状態がそのまま重なり合って存在できたのに、それが観測された瞬間に粒子として、片方に収束する。所謂観測者効果ということなのだろう。

観測するということは見るために『触る』必要があります。これは『手で触る』ということではなく、例えば、目で見る時も光がその物質に触れてないと見えないわけだから、その『触る』という影響が災いして量子は、『あ、今見られている』って気付いてしまうということなのだろう。見られていれば、実体として存在し、見られなければ単なる現象だ。

実在としての粒子、波動という現象の電子、その重ね合わせ、その矛盾性が物の実在である。見られているから姿を消そう。見られていないから姿を現そうと言っているのなら、これって超素人的には電子には意志があるってことか?

もし物の究極素材としての電子に意志があるとすれば原生生命がそれ自身の意志とし姿を現し進化を繰り返したのだ。ですから白血球は誰かに命令されてではなく、その役割や目的を自身の判断で行っているのではなかろかと思うのです。

「証明する必要もないくらい直感的に自明な法則」である公理をもとにして、「三角形の内角の和は、180度である」などの定理が導き出せるように」、客観的事実に基づき矛盾が生じなければ電子に意志があると思うは何ら問題がないと思えるのです。

物は原初から誰に言われるでもなく自分の判断で、自分の意志であるべき姿や未来を描きながら生き続けているのだろうか。





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