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相対主義、絶対主義

唯一絶対に依拠する立場が絶対主義と言えば、その反語として相対主義は関係性に依拠する立場と言ったらいいのだろう。

分かりやすくキリスト教と仏教の立場を見てみれば両者は判然とする。
先ずキリスト教の絶対主義の宗教的立場は、神の絶対である。
神は創造主であり最高の唯一である。

人にとっては神は絶対の他者である。
人はすべき善を欲しながら必然に悪をなしそれを悔恨としなければならない。そのことを罪と認め己に思い馳せることなく神の心にまかせるべきと説くキリスト教は紛れもなく絶対主義の立場に立つのだろう。

仏教には創造主はいない。唯一者もいない。神仏は人にとって絶対の他者ではない。その根本には縁起がある。
縁起という語は、何かに縁りてという語と起こるの熟語である。条件による生起と言ったらよいのだろう。

生起とは成るものである。その反語は消滅である。
ギリシャの哲学者、ヘレクレイトスの「万物は流転する」と同義である。
自然を説明する原理がその中に含まれそこから西洋哲学は出発した。
仏教はギリシャ哲学に源流にあるとされるのがそのことからも伺い知れる。

私が好きな食べ物を訊かれると基本的に魚や肉、野菜や果物すべての食べ物を知っているからこそ答えることが出来ます。
私は魚が好きと言っても、肉の好きな人、野菜が好きな人もいます。別に自分の好きな食べ物をを強要しても意味がありません。
これを平たく相対主義的なものの見方と言ってもいいのでしょう。

日本人であれば子供時代仏教に親しんだから仏教の知識があればその思想や哲学も理解しますし、好き嫌いでいえば仏教が好きと答えるかもしれません。
成長し学んだ実存主義に感動したから実存主義がいいとか、汝の敵を愛せよと教える寛容のキリスト教に救われたからキリスト教が好きとか、社会の矛盾を経験し、人間社会はその思想の帰結として理想の社会実現に向かうと説く近代弁証法がいいとか思ったりします。

たいていはこういう形で、好きな思想や価値観をもちます。しかし、この場合本当にその思想が好きというわけではなく、単にそれしか知らないことも多いのではないだろうか。

話の内容が飛躍しますが、この文章は相対主義や絶対主義的な考え方がどちらが優秀かと問うものではありません。
本当に自分が好きだと思うもことや理解できている価値観を自分のものにするには、自分に対立する価値や他の思想を基本的に学ぶ必要があります。
そして、他の思想をぐるっと一周して理解をえた上で自分の思想に還ってきた時、それでもやっぱりその思想を好きだ理解できたといえるなら、本物なのでしょう。

そういう本当に好きなものを知る自立した人間は、自分の価値を大切にすると共に、他者の価値も無視しないでしょう。

今問題となっている、とあるエセ宗教を刷り込まれ、その価値のためだけに生きてきた人に対し、その宗教を批判するような言葉を投げかければ、一体どうなるでしょうか。


その人にとってその価値は人生のすべてであり、その人の全人格、アイデンティティーそのものもといえるでしょうから、それを否定することは、その人を「無」にするに等しく、場合によっては批判者を殺しにかかってくるでしょう。


むしろ彼、彼女はその宗教を心の底から信じていないため、その無意識的不安から、批判に耐えられず逆上しているのかも知れません。


心の奥底では信じていないからこそ、他者に強要したり、批判に対し憤怒するのです。

本当に自分の価値を信じ、それを好きといえる人は、あらゆる批判に耐え抜きます。
なぜならそれらの批判をすべて知った上で、自分の好きな思想を選んでいるからです。

相対主義は終点ではなく、たんなる、あたり前のスタート地点でしかありません。(コテンTO名著より参考)


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