見出し画像

仏教では、私達の命の働きを「空」「仏性」といい、中国の老荘思想は古来から「無」と言い習わす。

仏性が[無]とは何だろうか。坐禅修行において結跏趺坐や略式の半跏趺坐をして坐る時、腹式呼吸による横隔膜の運動が起こる。

深い禅定中には理性脳から発生する雑念は鎮静停止している。このため分別意識脳である大脳(特に前頭葉=理性脳)の活動は休止(沈静化)している。

 しかし、生きているから呼吸はつづいている。呼吸の司令塔は脳幹の延髄にある。

画像1

呼吸運動によって、呼吸中枢としての延髄は活性化される。坐禅は、大脳新皮質の活動を沈静化し、下層無意識脳である脳幹と大脳辺縁系だけを活動させていることになる。 

分別意識脳は鎮静化しているので安らぎと安静の状態になるのです。

 インドで生まれた釈迦は、心の解放((本来的自己の目覚め)を目指し、「無分別智」の獲得を目指した。

苦しみからの解放、「涅槃寂静=寂滅為楽」、「無分別智」は仏の智慧と言われ、坐禅中脳がストレスから解放され、安らぎと安静の状態になることから獲得できる。

分別智を制御し無分別智の脳の活動を中国人は「無」と呼んでいたのだろう。

悟るためには一度徹底的に意識(理性智)を無くすことが必要だと思ったのだ。

私は子供のころより歴史が好き、本好きであった。休み時間も皆と外で遊ぶより教室で一人本を読んでいる時が多かったような気がする。

正月の小遣いは,ほとんど歴史の漫画本の購入で消えてしまった。そんなわけで成人した後も技術的仕事に就きながら歴史や日本文化の探求的生活をしてきた。

信仰とは信心にはあまり関心はないが宗教学には特に興味があり禅文化、禅思想には惹かれ京都に本部がある京大の久松真一博士が設立した近代禅の論究と実践に重きを置くFAS協会に参加した。

さすが日本文化、禅文化の発祥の地には人材が多く私のように地方で暮らす者には京都は『目に鱗』となる都会であった。

久松博士の直弟子であり高弟の諸先輩の宗教学や哲学の講話を聴き、論文を読み理解を深めてきた。西洋哲学から東洋哲学と多岐にわたるそのフィールドは理解が難しく禅の実践を含め中々向上しなかったが今日まで続いている。

多分に強い性格になりたいとか、交感神経や副交感神経をコントロールして平穏な毎日を送りたいとか座禅の持つ、健康的一面に惹かれたことがあったのだろう。

私は本来直感が鈍く時間をかけて理解をし実践するタイプであったから直感を大事にする禅の悟り(実存の追求)はどうせ無理だろうと深くは考えてこなかった。

各地の座禅会に出かけたり哲学書を読んだりしているうち禅とは自己追及の実践なのだとその当たり前に気づいた。

本来の自己を知ることが端的に悟りといえるのだろうと思いその気になって己自究明的な追及時期もあったが、前述のように向上もなく惰性で今日まで来てしまった。

そんな時こんなウエブの記事をめにした。

以下―
「お坊さんはともかく、一般の普通の人は必ずしも悟る必要は無い。人それぞれ個性が違い、環境も違うから。興味ある人はやればよい。

それよりも重要なことは、人それぞれ夢や希望を追う日常生活の中において、『一呼吸、思い出したら、一呼吸』することだ。

そうすれば、そのつど覚醒して我に返り、虚仮の世界からリアルな世界に戻る。そして、本来思うようにはならないはず(華厳の重々無尽縁起)のこの世の中で、

学業や家事やビジネスに取り組んでいけばよい。それ以外無い。前へ前へ前進あるのみ。

そのように生活していけば、悟っていなくても悟った人と似たようなものだ。病気の人もベッドの上で出来る」こんな記事であった。

今の自分と全く同じではないかと意を強くした。

今回悟りとか無について書きたいと思ったのは、人間の力を超えた、宗教とか信仰というものには興味があったからではない。

論理学や脳生理学ないし心理学歴史学、工学等を通じた論理的帰結とした形でなんら怪しさもなく悟りやマインドフルネスを語ってみたいというだけなのです。

仏教というのは、基本的にはブッダの教えですが絶対性という神の概念はありません。

絶対者が釈迦を指すのではと思う人がいるかもしれません。
ブッダ、仏陀は古代のインドの言葉サンスクリット語で目覚めた人を指す一般名詞です。

釈迦滅五百年前後に大乗仏教が興ると、釈迦は絶対性を示すスーパーネイチアーに祭り上げられたようです。今の日本の葬式仏教の原型があったのです。

葬式仏教と揶揄される現実の日本仏教を批判するように大乗仏教興隆時、小乗と卑下された南伝仏教である上座部仏教がマインドフルネスという何か新しい響きを携えてアメリカから日本に入ってきました。

このような上座部系仏教は大乗仏教に慣れ親しんだ私たちには新仏教ともいわれる響きがあります。

 葬式と死後の供養のときにしか必要とされない現代日本の仏教は、アメリカ経由で輸入された上座部仏教にとってかわられる日が来るかもしれません。

観自在菩薩行深 般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空度一切苦厄
舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色

漢訳のお馴染み般若心経です。深い意味が分からない人も少なからずいると思います。ある学者がこれでは困るのでこのように理解したらよいという記事を見つけました。

「生とは何かを考えてみましょう。心身は本質的には幻想です。ここに気づけばあらゆる苦しみは霧散します。形あるものは空に他なりません。空は形あるものに他なりません。形あるものは空そのものであり、空は形あるものそのものなのです」

お経は現代人に理解できるように詩のような形にすればよいと提案しています。

人間の意識のクオリアも空。しかも。空とは大自然ですから不完全なものではなく何事においても完ぺきです。
意識は幻想という科学と宗教の相互浸透という立場に立てば、ある種仏教というものは現代科学の最先端の比喩表現と捉えられるかもしれないのです。

例えばキリスト教と仏教、同じことの異なる表現法としたらあらゆる宗教はすべての面で拡張して行けば新たな宗教として統合するかもしれません。

この時のネーミングは「みんなが幸せになる道」でも良いのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?