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心と体 意識とは何だろう その2

序論
ヨーロッパ近代哲学の祖とされるデカルト。
哲学の祖といわれながらも、神の存在と霊魂の不滅を信じ、心(非物質的魂) と身体を各々独立の実体とみなす実体二元論によって近代の 物心二元論の創始者となったのは知られた事実である。

これゆえに、心と物は科学的対象として明確な区分を与えられた。
物についてはニュートンの古典物理学の機械論的自然観の採用とあいまって、きわめて合理的な考え方をとることが可能となった。

例えば現在の在りかたを明快に知ればその将来も因果として確定できることが可能となったが(自由意志の否定)、その一方で、神や 霊魂の世界への確信は失われていき、ついには人間機械論さえ唱えられるなど、西欧の精神世界が価値や生の目的、 真理の喪失とともにニヒリズムという精神的危機とも対決しなければならなくなってきたのだ。

日本及び日本人に於いても、このNoteに於いて何度か書いてきたように、その精神文化において現在もなお神道のアニミズムを継承して来ている。

西洋合理主義は発展の段階で古代人の心性を忘れ否定してきたが、それを引き継ぐ日本の精神文化や宗教は一部忘れたものを除き私たちの基底に色濃く残されている。

それは、わが国における明治以来の近代化(西洋の模倣化)また近年の経済社会のアメリカ化の動向とは際立った対比をなすものである。

一例をあげれば、大抵の日本人は小さい頃からご飯一粒残さず食べなさいと教育されます。この米粒一つ一つをきちんと食べることは、食べ物に対する感謝を表すことであり、一つ一つに神が宿ると信じる日本人もまだまだ多くいるからです。

入れ墨などに対する意識も日本人には特別なものがある。ある面、裏社会に属する紋章としての拒否感もあるが、何よりも
両親(神)から受けた神聖な肉体を傷つけることに対する拒否感が多いと思う。この点ファッションととらえ、体を単にものとする欧米やその他の外国とは意識の差があるのだろう。

こんな細やかな事例をみても日本人は、このように心と体を分けない心身一如とか心身一元論的な文化を多く残している。

科学者であるアインシュタインは、外部の超越者による創造や奇跡は認めなく、世界そのものが超越者だとする信念を合理的な宗教だと感じたという。

彼は、17世紀に活躍したオランダの哲学者スピノサの「汎神論」という神の概念にも賛同しています。スピノザは「神」という概念を通して、この世界を一元論として解釈した最初の思想家です。

スピノザ以前は、フランスの哲学者デカルトが唱えた物心二元論が支配的でした。物心二元論は、この世には「物」という実在と「心」という実在が別々にあって、それら二つを調和させているのが神様だ、といった考え方です。

対して、スピノザの「汎神論」の「汎」には、「広くすべてに行き渡る」という意味があります。つまり「汎神論」において、神は存在するすべてのものに浸透しており、この世界はまとめて神の一部であるというのです。
神はすべての存在に先立つ超越者ではないことも示唆します。

スピノザの唱える神は、キリストのような人格神ではなく、万物の中そのものに神性が宿ることで自然界の美しき法則を成り立たせているのです。この思想に触発されたアインシュタインは自然界に合理的な法則をもたらすための「相対性理論」を生み出すに至ったといわれます。

アインシュタインの考えは日本人の道元の思想に近いのではと指摘されている。

何故ならば、道元の思想は合理的であり、時間論は相対論と整合的ですらあるからです。その理論によると「時間と空間は別々の存在ではなく時空(時空間)という一つの存在、あるいは一つの概念で理解するもの」であるとしています。そして「宇宙にはたくさんの時間が存在する」と規定した。

一方、道元は1200年に京都で生れました。
1223年禅を学ぶため中国に渡りました。

4年間中国で修行し、1227年に日本へ戻り1246年6月道元46歳のときに「永平寺」を建立しました。

道元は著書「正法眼蔵」の中に「有時」の巻をのこしています。

有時とは時間は存在であり、存在はみな
「時」であるということです。

これは時間の経過の中における一時をいうのではなくまた
その一時における存在の仕方をいうものではないとしている。

道元が言う所の有時とは「時間と空間(存在)は一つである
という現実のありかた」それを「有(空間・存在)」と「時」を一つにして「有時」といっています。

私たちの人生は常に有時であり「今」ここだけであり、その他の「私」は存在しないということになります。
このことは私だけではなく、「植物、山、海(動かないもの)」もおなじです。

道元はアインシュタインの700年前に既に「時空は一つである」と言っていたのです。心身一元論は仏教の基本的な考えであり、道元の有事はその意味で存在は時間なりと一元的な展開をしたのでしょう。
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