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日露戦争の雑記 続編


黒溝台の死闘

 朝鮮半島上陸後中国大陸に出征し、日露の死闘を繰り返した青森(津軽)第八師団は、第一・第七・第九師団とともに、乃木希典司令官が率いる第三軍に編制された。

 この第三軍が明治三十八年(一九〇五)一月二十五日から二十九日までロシア軍と日露戦争の死命を制する死闘を繰り返すことになった。

 黒溝台会戦と呼ばれるこの戦闘こそ、日露の最終戦奉天会戦の前哨戦として、その後長く国民に語り継がれる戦闘となった。

 青森県津軽の第八師団は、この戦闘に15,719人が参加した。
極寒の大陸での戦闘は、寒さに強い東北の師団に過度な期待がかけられていた。

 山好きな私が紅葉登山に登ったことがある青森八甲田山で風雲急を告げていた当時、日露戦を想定しておこなわれた雪中行進。 戦場が想定された満州の広野では冬の温度は平均マイナス20度になる。温暖な地域出身の軍隊だったらもたないだろう。それに加え世界有数の積雪量と過度の期待を荷せられた津軽師団は冷静な判断力を失い雪中行軍で200人の死傷者を出した。

 今こそその犠牲を乗り越え極寒の戦闘での本領を発揮する時が来たと、地元津軽市民のみならず日本中が見守っていた。
 黒溝台の戦闘は第三軍司令官乃木希典の指導力不足をはじめ、軍自体の準備不足や作戦ミスなど、支障が大きく、戦闘自体は大変な消耗戦となり、文字どおりの死闘となった。

 とくに第八師団は、たった五日間の戦闘で戦死者1,259人、負傷者3,890人、生死不明者70人など、合計5,219人の損傷を受けた。
 損耗率は四〇%に近かった。
このほか後備第八旅団が戦闘に5,311人参加し、戦死者315人、負傷者1,628人、生死不明者31人、合計1,974人の損害を出していた。こちらも損耗率は四〇%に近い被害である。

 軍事的には損耗率三割で戦闘力喪失、五割を超えると壊滅といわれている。黒溝台の戦闘によって第八師団はは戦闘力を喪失し、あわや壊滅となるところだったのだ。
 黒溝台会戦では、全体で日本軍は約53,800人が参加し、戦死者1,847人、負傷者7,249人、捕虜227人、損害合計9,324人だった。

 第八師団と後備第八旅団の損耗率は八〇%に近い。つまり黒溝台会戦の被害は、ほとんどが第八師団関係だった。

 当然、この被害情報は新聞などを通じて弘前市民にも伝えられた。郷土師団の活躍を期待して見送った市民は、黒溝台会戦が天王山となり、そこで郷土師団の将兵たちが活躍することを心待ちにしていた。
けれども結果は郷土将兵の数多くを失うという悲劇となってしまったのである。
 この戦闘ではロシア軍も大損害をこうむっていた。参加将兵日本軍の2倍、約105,100人のうち、戦死者611人、負傷者8,989人、失踪者1,105人、合計11,743人である。負傷者が多く、失踪者が1,000人以上出ていることからも、ロシア軍の被害がそれなりに大きく、内部崩壊の状態を見せていたことがわかる。
 それでも戦死者が少なく、全体の損耗率も一〇%程度であるから、日本軍、とくに第八師団の被害と損耗率がいかに膨大だったかがわかるだろう。

 弘前市民にとって黒溝台の死闘は、現実的には相当な痛手だった。出征していた身内や関係者の痛ましい死は、市民にとっても辛い経験となった。けれども日本軍死傷者の大半が第八師団関係者であり、その膨大な犠牲を払った上で勝利を導くことができたことは、弘前市民の誇りになった。
 黒溝台会戦が、何よりも劣勢だった日露戦争の戦局を打開し、最終的な勝利のきっかけとなったのだ。

  明治38年(1905年)1月、ロシア第二軍司令官グリッペンベルグは約10万人の大軍で日本軍最左翼への総攻撃を決行した。
 その最左翼を受け持っていた秋山好古率いる秋山支隊は、わずか8,000人の兵で約30kmの戦線を守っていた。
 総司令部もこの攻勢に初めて反応を示し、一個師団を救援に向かわせることにした。
 わずか一万数千の援軍である。ロシア軍の作戦は沈旦堡と黒溝台を撃砕して日本軍左翼に南下し、包囲作戦に出ようとするものであった。これが成功すれば、日本側は全軍が全線で崩壊する。

 この時期、総司令部が握る総予備軍は弘前の第八師団だけだった。立見尚文中将率いる通称立見師団で、熊本の第六師団と並んで日本最強との呼び声高い師団である。
 この立見師団は戦略予備軍であり、満州における戦局の激しさの中で常に兵力不足に悩まされていた日本軍は、この戦略予備軍まで使わざるを得なかったのだ。

 日本騎兵育ての親と言われる秋山好古は敵の怒涛の攻撃に耐えていた。その防戦に最も力となったのは、各拠点に数挺ずつ配置した機関銃であった。好古は懸命に防戦した。もはや戦術も何もなく、逃げないという単純な意志だけが戦闘指揮の原理となっている。
 その頃、秋山支隊の援軍として派遣された第八師団がロシアの猛攻に立ち往生しており、このことを知った総司令部の狼狽は極みに達した。この頃になってようやく総司令部もロシア軍が左翼を突破し日本軍の包囲攻勢をかけようとしているということに気づき、さらに第2師団、第3師団の派遣を決定した。
 しかし、黒溝台に密集しているロシア軍は依然として活発であり、日本の諸隊がこれに接近すればそのつど猛烈な銃砲火で撃退された。この状況を打破したのは、立見師団の夜襲であった。

 師団単位の夜襲は極めて難しいもので、通常行われないものだが、しかし、立見は夜襲の名人であった。この日本軍の夜襲作戦は夜陰に紛れ敵陣に接近すると銃剣や抜刀による肉弾戦でありロシア兵が最も恐れた戦闘であったが当然味方の損害もおおきかった。
立見師団は、おびただしい犠牲を払いながらも怯むことなく躍進し、黒溝台の奪還に成功した。
 このとき立見師団の受けた損害は死傷6,248人(うち戦死1,555人)というもので、一戦場で一師団が受けた損害としては、この時期までの世界戦史に類がないといわれる。
 それだけの犠牲を払いながら負けなかったのは、ロシア軍の不思議な退却と立見師団の不可能を可能とした奮戦であった。

 師団長の立見尚文中将は戊辰戦争の賊軍、桑名藩の出身である。長州戦争では高杉晋作の奇兵隊を撃破したり、戊辰戦争後、軍人としての高い才能を見込まれ政府軍に将官としてスカウトされた。
 西南戦争の城山では西郷隆盛を自刃に追い込む作戦を成功させた功労者である。

 この会戦をロシア側の戦史では「沈旦堡の会戦」といい、日本側では「黒溝台の会戦」という。この会戦に参加した日本軍の兵力は5万3800人であり、死傷9324人、ロシア軍は兵力10万5100人、損害は1万1743人であった。
 ロシアにしてみれば最大の勝機を逸したというべきであり、九割の兵力を残しながら退却したのは奇妙というほかない。この奇妙さはクロパトキンの命令によるものであったと司馬遼太郎はいう。

 「この会戦は日本軍にとって決して勝利とはいえない。総司令部の作戦上の甘さと錯誤を、秋山好古や立見尚文の士卒が、死力をふるって戦うことによってようやく常態にもどすことができたというのが正確な表現であり、いわば防戦の成功であった。」

 日露戦争陸戦の最大功労者は誰であろうか。欧米のメディアや戦術家達は一致して立見尚文を推す。
 日本軍の倍の兵力であるロシア軍の正面を立見師団は抜刀決死隊を編成しこれを突破した。
 この時代の日本人の誰でも自覚していた、ここで退けば日本は滅亡する。一歩も引けない。突撃あるのみの決死の覚悟が、分厚いロシア軍の正面に風穴を開けた。
 露軍は、最も最弱と狙った日本軍最右翼の思わない抵抗に会い狼狽した。 日本軍挟み撃ち作戦の逆の進行、後方の退路を断たれる危険、立見師団の黒溝台再奪取を恐れた。
立見師団後方には更なる戦略予備軍が配置されているのだろうと読み違えたのだ。
 ナポレオン戦争のように押して引き、敵を奥深く誘い込みその補給線の分断を図るのが露軍の常套作戦であるが、敵将クロポトキンは突然奉天へと自軍を後退させてしまった。
 紙のように薄い日本軍右(日本側では左翼)前線を、あと一押しすればロシアの勝利は確定したていたのに信じられないことであった。
 ロシアの作戦指揮能力は現在のクロアチア戦争のように情報戦達成能力が落ちるのが潜在的問題なのだろう。
 日本軍は幸運にも勝ちを拾った形となり更なる北進に備えることが出来たが国家としての戦争遂行はその限界に達しかけていた。その事情は革命勃発ロシアも同じであった。
 
 戦争は決して賛美してはならないが、国際状況次第では避けてはならない事もままある。外交交渉で自体の改善を図ることが最良であるが、ロシア皇帝のように日本人を「黄色い猿」と見下し威圧していた野蛮国相手ではそれも不可能だ。
 国民の不屈の意志と団結力こそが国家の危機を救うのは歴史が証明するのだ。


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