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日本学術会議の「非」任命問題

菅氏の学術会議「非」任命問題について。

「学問の自由の侵害」という問題設定では十分でないとして、「首相が任命をしないことができるのか」と手続き論を問題にする向きもある。

もちろん学問の自由は保障されるべきで、また、手続き論は非常に大事だが、それよりもっと足元のところで、菅氏や安倍氏が、その権力を使って、本能的或いは確信犯的に蹂躙しようとしているものをもっと問題にしても良いのではないだろうか。

例えば、農家の出身で自分は叩き上げだとアピールしている菅氏のその経歴は、現在の社会の「枠組み」があってこそ、「出自に関係なく、勉強や努力によって、社会の中で成功できる」という価値観を体現することが出来たわけで、この価値観がこの社会の中で、人々に訴えかける力を持っていると思うからこそ、自らのアピールポイントにそれを使っている訳である。

私もその様な社会が良いと思う。出自に関係なく、自分の人生のフィールドや方向性を選ぶことができ、努力によりその道を開いていける様な社会。もちろん、制約はあるだろうけれども、それを無くしていこうと社会全体で努めることも大切だ。

人類の歴史を見れば、恐らく多くの人の人生はなかなか悲惨だったのではないかと想像がつく。

狩猟から農業に人々の営みが変遷し、産業革命が起こり技術が発展していく(ざっくりですみません)中で、人々の生活はどうなっていったか。恐らく食糧供給が安定して飢える心配は減ったが、労働集約型となっていき、自由な時間は減る。

中世において、ヨーロッパやアジアでは「封建主義」が中心的な社会構造だった。その社会の中で、人々の特性は、仕える対象は変わりこそすれ(家族の父親、荘園の貴族、王国の王、、、)、「服従」であって、それを基盤にして成り立っていた社会だったろう。封建主義のもとでは、人々は生まれながら、決まった身分の中で、特に選択の余地もなく、忠実に何者かに仕え、働いていただろう(その中に人間らしい喜びや悲しみももちろん沢山あっただろう)。

子どもも例外でなく、労働力としてあてにされていたが、それは技術が発展しても、今度は労働の場所が農場から工場へと変わっていっただけだった(1832年に、ニューイングランドの工場の全労働者の3分の2は、7歳から17歳の子どもであり、典型的な労働時間は夜明けから午後8時まで、週6日だった)。

科学面での発展は、それだけでは、必ずしも人々の社会が良くなることを意味しない。

現在の社会(どの、という問題はあるけれども)の大きな枠組みを作ったのは、残念ながら日本語で良い訳語だと思わないけれども「啓蒙思想」だ。英語ではEnlightenment、仏語で Lumières、独語でAufklärung。光で照らす、というその言葉の通り、理性的な思考による「知」を光に例え、照らして、それまでの「暗黒」を払拭していくという捉えられ方をしている。ウィキペディアにはこの様に説明されている。

❞時代的に先行するルネサンスを引き継ぐ側面もあり、科学革命や近代哲学の勃興とも連動し、一部重複もするが、一般的には専ら(経験論的)認識論、政治思想・社会思想や道徳哲学(倫理学)、文芸活動などを指すことが多い。17世紀後半にイギリスで興り、18世紀のヨーロッパにおいて主流となった。フランスで最も大きな政治的影響力を持ち、フランス革命に影響を与えたとされる。❞

これらの「人文知」により、人権は、「発見」されたのだと思う。現在の解釈では「天賦」とされている。それは、どの「人間」も人に与えることが出来ないという考えからだと思うけれども、天が与えたとしても、人がそれを発見したことにより、存在できるようになったというのは、他の概念(例えば、ゼロ)と同じだ。

長い歴史の中で、時には命をかけてたたかってきた人たちの尽力の上に、今の社会があって、私も生まれながらに、朝から晩まで選択の余地なく人の命令に従って労働する事を強いられる生活を送らないで済んでいる。子どもは子どもらしく遊ぼうとか勉強しようという時代を生きることができている(そこにまた様々な問題があるにせよ)。

人文は「贅沢」な分野だという誤解があるかもしれないが、とんでもない。私たちが奴隷の生活から今、解放されて生きている(そこにまた様々な問題があるにせよ)のは、そういった「発見」のおかげである(未だ解放されていない社会もある)。

そして、出自に左右されずに優れた人が、自らの意思で選んだ道に進むことができるのは、「権利」に守られた環境があってこそで、その上で自然科学系の研究も発展を遂げてきているわけだ。つまり、理系と文系はどちらが役に立つ立たないではなく、両輪となって社会を支えている。

そして、菅氏が今回、学術会議の任命から外した方々は人文学系の研究者だけだった(京都大学教授でキリスト教学者の芦名定道氏、東京大学教授で政治思想学専門の宇野重規氏、早稲田大学大学院教授で行政法専門の岡田正則氏、東京慈恵会医科大教授で憲法学者の小沢隆一氏、東京大学大学院教授で歴史学者の加藤陽子氏、立命館大学大学院教授で刑法専門の松宮孝明氏)ということは、私たちが「重要だ」と認識している、「人間の平等」を作り支えてきた「知」に、喧嘩を売ったのだと思える。そこを否定しようとする主体が、何を志向しているのかは、想像に難くないと思う。「服従」を復活させたいかのごとく。

私は専門家ではなく、雑なことしか書けないけれども、それでも書いたのは、「知」を背負っておられる、研究者の方々、私の尊敬する大学の先生方は、自分で自分たちの研究の正当性を主張するには、余りにも謙虚で奥ゆかしい方々が多いように見受ける(優れた方は自分のことや業績を、自分で凄いとは言わない)ので、例え専門家ではなくても、一般人として、それを言わないといけないと思ったからだ。

そして、それらの「知」は、単に机の上で練り上げられた抽象的な概念だけではなくて、当然実際に生きた人間の苦しみや嘆き、歴史から生まれているということを考えると、やはりこれは、単に専門的な学問だけの話ではなく、生活する私たち全員の話なのだと思う。

そして、今、この国に生まれた私達は皆、その恩恵に預かっている。

学問が役に立つ立たないと、話を矮小化している意見も見かけるけれども、そもそもその上に私たちは立っていて、その中に私たちは暮らしているということは、当たり前のことだけれども、忘れたくない。

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