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岡村淳監督作品『ブラジルの土に生きて』をみて

「ブラジルの山峡の農場で晩年を送る明治生まれの移民夫妻の日々。夫は、いかに死ぬかにこだわり続け、妻はいかに生きるかを貫いていく。」(監督の著書『忘れられない日本人移民』内の紹介文抜粋)

岡村監督のドキュメンタリー作品のフォーカスはあくまで「人」。それは、撮影者である監督ご自身の気配を消すことなく(全く消してしまっているようだったら、それは、「支配」しているようで恐ろしいというようなことを作家の星野智幸さんが上映後のトークライブで言われ、ああなるほどなあ、と思いました。)、出来うる限り自然に、人の確かな「そこにいたこと」を切り取る監督の作品はリアリティに満ちていて、つまり、そこにはたくさんの命や時間が詰まっています。

観る人の各々が、それぞれの印象を得て帰ってくると思う(恐らく観る人の経験やライフステージで、受け取ることも違う)のですが、とにかく、それらの命の閃きのかけらをもらって、そのかけらは、帰宅後も自分の中で、輝き続けたり、何かをむくむくと育てたりするようです。それを言葉にしてみると、「感想」ということになるのでしょう。

監督の作品ほど、「感想」が生まれでたいと私に向って主張してくる作品を、(少ない体験の中ではありますが)他に知りません。

『ブラジルの土に生きて』は、最初の30分ほど見逃してしまったのですが、遅れてでも観にいけて本当に良かったと思う作品でした。心に残るシーンやセリフがたくさんありました。

中でも、印象が強かったことを記してみます。全ては私の勘違いかもしれないのですが。

心臓を患い、生活する上での不自由もでてきて、自らの死について日常的に口にする延兼さん。そんな延兼さんのお世話や、家族の食卓の支度に心をくだいて、自分の時間を費やす敏子さん。その空いた時間に、70歳より始めた陶芸の製作に精を出す。

延兼さんの眼差しは、死を見つめているようである一方、敏子さんは日常生活を見つめ、しゃんと伸びた背筋は、まだやろうという意思が見て取れる。

延兼さんは、1999年の日本人移民記念の日に亡くなる。その後の敏子さんは、延兼は亡くなることで私の中に入ったのでいつも一緒にいる、私は陶芸に打ち込む、その間は何も考えなくて済む、とカメラを抱えた岡村監督に向って話す。延兼さんが、「あなたが芯から納得するものを作りなさい。そうしたら、迎えに行くから。」という言葉を遺したのだ、と。

敏子さんが、延兼さんの「生」を、最後の瞬間までできるだけ快適なものとするために心を砕いていたのだとしたら、延兼さんは、敏子さんの「死」を充実させることと、安心させることに、心を砕いたのかもしれない。

「自分らしいものを創りなさい」とは、なんという究極的な生の目的なのだろう、と感じながら、敏子さんが語るのを私は聞いていた。その究極さは、「死」の場所から見ているからこそ、導かれ得るものなのではないか。

ぼくが君を迎えるから、なんにも、心配しなくていいんだよ。

二人の、互いへの、思いやりを感じる。

敏子さんは、延兼さんが、逝ったあとに、お皿に絵付けをしながら、「ひとりだ」という言葉を吐き、そのどうしようもない寂しさが私にも迫ってくる様に感じた。

生きるということは、どうしようもなく寂しいことであるからこそ、私たちは、思いやりが必要なのかもしれない。思いやりというのか、愛というのか、情けというのか、言い方は色々だろうけれど。夫婦でも、親子でも、友人関係においても。お互いに慰めあいながら、私たちは、寂しさを抱え続ける。

帰途の電車の中では、持参していた岡村監督の著『忘れられない日本人移民』を読んでいたのだが、巻末の星野智幸さんの言葉の、最後の部分で、どうしようもなく涙が出てきてしまい、下を向いてそれが止まるのを待った。

“難しくはないのだ。本当は誰にでもできること。ただ自分に忠実に、自分の時間を生きる。” ”そこには、自分を生ききった喜びがあふれている。”

鑑賞中、翻って、私が自分の生を追及しているか、という問いが頭を掠めたのが、この文章で、止めをさされてしまったようだった。

それは、思うがままではない生、であり、苦しみも悲しみも喜びもあり、その生への、責めというよりは、指針というか、応援というか、これは言葉にできない。

私たちは、自分を生ききって、ようやく最後に、自分に「なる」のだろう。

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