墓場まで:とは

ここで重苦しく、長い話を書こうと思います。
どうして今こうやって色んなものと戦っているのか、殆どがこの時からだと思う。
なので、意を決して書こうと思う。
一度ろくちゃんが死んだ日のことを。

今でも覚えている、消したい筈なのにどう頑張っても消えないことなんですが。
何故なら毎年テレビをつければその話題が出てきてしまう、勝手に記憶の傷を抉り出してバット握ってフルスイングだ。

僕は3月が怖い。

10年経っても、いい歳になったなぁとか言われても、3月が怖い。
今日ぐらいから足音が聞こえてくるだろう、きっとTwitterもnoteもその話で持ち切りになるのは分かっている。自衛するのが毎年大変だ。

3月11日14時46分が、
毎年怖くて仕方ないのだ。

事細かに覚えている、その時僕は韓国ドラマを見ながら出かける準備をしていた。
着替えながら揺れに気が付き、嫌だなぁ~と軽く考えていた。
揺れてんn……デカくね?
テレビは相変わらず韓国ドラマを流していた、何も情報がないまま揺れていた。
愛犬様は「おいで」に反応しないでお馴染みの可愛い弟だったのだが、流石にヤバいと感じてくれたのかテーブルの下から叫んだお姉ちゃんの声に答えてくれた。
愛犬を抱えた瞬間、テーブルの横にあった食器棚から大量の食器が落ち、割れた。
先程まで愛犬様がいたところだ、そして素足の自分の足まで残り3cm、大きな破片が飛んできていた。
あまりその時のことは覚えていないが、愛犬だけは守らなければと必死になっていた。
「大丈夫だよ、お姉ちゃんいるからね」

全然大丈夫じゃねぇのよ。

自分の命はもう駄目だと思った。
僕は駄目でも愛犬だけは生き延びて欲しくて、必死に抱っこしていた。
揺れが収まり親と電話が繋がった。仕事どころじゃないので何とかして帰るという連絡。
親友(後輩)に電話をかけた、なんでだったか分からんが東京より上に位置する場所にある実家に居ることを知っていたから、心配でかけた。
元気だった。
地盤が強いっていいな、いいな、地盤が強いっていいな。でんぐり返ってしまうわい。

その後の記憶は無い。
愛犬を抱えて割れて飛び散ったガラスを眺めていただけ、踏まないようにとかそんな事考えてなかった気がする。
親が帰ってきても愛犬様を抱っこして立ち尽くしているだけだった。

ここで一度僕は死んだ。

その日の夜から余震やなんやと、鳴り止まぬ速報に脅え、1時間に1度アラームをかけて起きるという謎の行動に出る。
ちょうどアホみたいなバイトを辞めて次の職探し中だったから、家にいる時間が多かった。
まぁ少なすぎるが貯金もあったので、何故か生きていられた当時、不思議。
昼間は愛犬を抱えてテレビを見るが、被災地の映像や自然災害とは何たるかを見せつける映像ばかり。頭もおかしくなる。
だけれどテレビが消せない、いつ何の情報が飛び込むか分からないから。
夜中1時間に1度アラームで起きているから、昼間眠くなる、お昼寝する。
何のための深夜アラームなのか。
今考えれば分かることなのだが、そんな事も考えられない程頭がおかしくなっていたのだ。
それが4~5日ほど続いた辺りかな、親が流石にヤバいと思ったのか病院を探そうと言った。
その頃は多分東京の余震は減っていて、速報は鳴れども揺れは小さかった気がする。
愛犬を家でお留守番させられないけど、家に居たくない、ハチャメチャ心理だ。
地元周辺の精神科や心療内科に手当り次第電話するが、看護師さんや技師さんがいなくて診察できないと言われる。
ンギィ!
まぁそりゃそうだ、みんなお家が大変なんだもんよ。出勤だってままならないって方も多かったじゃない、仕方ないことなのよ。
そこでたまたま見つけた心療内科に電話をして自分の状態を話したのだが、電話口で凄い言葉をもらった。

「そうかぁ、今まで我慢して大変だったねぇ、今すぐおいで!」

蜘蛛の糸。これが切れたら耐えきれず自ら命の炎に氷水をかける所だった。
病院には先生しかいなかった、看護師さんも検査技師さんも出勤大変だから自宅待機にして、先生だけ急病人の診察にあたっていたそうだ。
まさにろくちゃんみたいな人のために。
診察という堅苦しい診察はしない先生なので、気楽に話ができる人だ。
まずは「現場から離れる」という事をしよう、と言われる。我慢して潰されて生きるのが辛くなるより、生きていける環境にいる事が大事。
驚いた。
自分は「東京なのに逃げていいんですか?」と聞いた。震度5強の東京から、逃げていいんですか。被災地の人が逃げるべきなのに、自分が逃げていいんですか。
なんで先生に問うたのか、病院に行くまでの期間にネット上で言われたんだ。
東京のくせに怯えすぎ、甘えんなよ
その人は当時40代前半の男性だった、明らか凄く年下の女の子にえらいこと言うよね。まぁ、以前よりそういう人だったのだが。
人間お前と同じじゃないんだよ、周りのが優れていることを自覚しろ。
先生は「逃げることは悪いことじゃない、怖いものは怖い、それでいい」と言ってくれた。

僕は東京から逃げることにしました。

そこでまぁ一悶着ありまして、離婚した父親の元にお世話になろうと思い電話すると向こうで女がうるせぇ
当たり前なのだが、平べったい言葉で言えば精神安定剤を服用している。当時はかなり強めのものを飲んでいたので、基本は大人しく室内にいる事が多い。まぁしかし女がうるせぇ。
「こっちにも色々あるからぁ」じゃないんだよ!!そのババア黙らせろ!!
初めて顔を知らん人をババアと言ったあの日の僕へ、なんと立派にオタクになりましたよ。
実の娘が困っている時に助けられない父親になるべきではない、というか、人間としてどうなのお前
母方の親戚は家に来てもいいが、精神安定剤を服用している姪っ子を家に1人にするのが心配で…と色々考えて下さった。
そこで僕は謎の決心をする。

1人でホテル生活する!

悠々自適、息抜きに出かけやすい場所に近い所を選んでホテルを1週間とった。
親戚も近くにおるし、クソ父親もいる、なにより産まれた地である名古屋だ。
キャリーバッグに必要なものを詰め、ノートPCに大きなダッフィーも抱えて、好きなアイドルも詰め込んでいた。
荷造りの記憶はない。
新幹線に乗ったらしいが覚えていない。
ホテルに着いたのも覚えていない。
初日何をしたのかも、覚えていない。

ただ、栄の街は明るかった。

ひとつだけ不安なことがあった、薬のことではなく、子供返り(幼児返り)だ。
11日の夜から既におかしかった、日に日に酷くなる子供返り。
キラキラしたもの、ふわふわしたもの、可愛いもの。女児向けおもちゃを欲しがったり。
愛犬様とぬいぐるみを抱えて家中歩き回っていた事。
酒が飲める子供なんよ
名古屋でも子供っぷりを発揮する、どんぐり共和国とポケモンセンターナゴヤだ。
オアシス21にポケセンがあった頃なんだけど、毎日行って可愛いものを眺めていた。
自由に使えるお金は限られていたから、なるべく自室から可愛いものやぬいぐるみは持っていった記憶がある。
どんぐり共和国は本当に助けられた、可愛いふわふわ大集合スペシャルだ。
ありがとうスタジオジブリ、ありがとう宮崎駿。

揺れがない名古屋で過ごしていくうちに、少しだけ自分のことが考えられるようになった。
母親の姉・叔母二人と食事に行ったり若者向けのショップはこの建物な~とか、気が紛れる事があったから余計に。
とりあえず子供返りすげぇなってのと、嵐ってすげぇなってことだけ分かった。
相葉雅紀がJrの頃から好きだったから、嵐のDVDを持ってきていた。
毎日見ていたのだが、まぁ、飽きない。
その時間だけ全てを忘れられるからだ。
KinKiのDVD持っていってたかは、忘れた。でも何かしら見てた記憶があるんだよな…
音楽に浸り何もかも音楽に漬けて静かに睡眠導入剤で眠りにつく。
とにかく担当アイドルと音楽は強いってこと。
好きな人や好きなことがあるだけでそこに逃げてもいいと、辛くて考えたくない時は逃げ場になってくれるから。
好きなことや好きな人がいる事を、心から褒めたい。

怖いもんは怖い、逃げてもいい。

1週間の名古屋生活にも終わりが見え始め、でもまだ東京に戻るのはおすすめ出来ないと先生と電話。
ここで救世主・親友(後輩)のご実家
こちらでその後2ヶ月もお世話になる。
もう本当にお世話になりすぎたので今後もなにかしら恩返しに恩返しを重ねたいのだが、さして何も出来てないので己を強めに引っぱたきたい。

6月、東京に戻る。
帰宅即余震
喧嘩売ってんのかナマズコラァ!!!

そして10年が経ちます。
当時お世話になった病院も先生も変わらず未だお世話になっているが、薬は大分軽くなった。
その代わりストレス性胃炎が慢性胃炎になり、数年前には自律神経を失調させたり、腎臓がドォン!としたりアレルギーが大爆発したり。

何も変わってまっせーん☆*°

むしろ体調はハワイのサーファーが喜びそうな大波。乗るぜこのビッグウェーブに!位の勢いでマジで乗らないで欲しい、内臓のライフはもうゼロよ!!!!!

先日の地震はパンツ一丁でカメラ機材が乗ったラックを押さえてました、暴言吐きながら。
着替え中に揺れんなナマズコラァ!!!
その後1~2時間後に発作が起きて大変でしたが、以前よりだいぶマシになったもんです。
好きなアイドルを眺め音楽を聴き、恐怖の逃がし方を覚えたオタクは強い。

あと少しで3月が来ます。
何年経っても地震が怖い、という僕に先生は「怖いもんは怖いで正解なの!克服なんてしなくていい!みんな怖いもんよ!」と言い続けてくれます。
なので怖いです、怖くて正解です。
揺れてる気がしたらコップに水入れて目の前に置いて、気になったら水面眺めて「大丈夫やわ」と繰り返してます。10年ずっと。

昨年11月末。
10年振りに名古屋の地に1人で降り立ちました。
今回は楽しい目的の為、名古屋に行きました。
10年前の辛い記憶を打ち消すために、名古屋に行きました。
どうしても会いたい人がいた、会いたい人達がいた、10年前とは違う辛さを抱えた僕に「生きる希望」を与えてくれた人に会いに行きました。

斬る'em ALL

DJつづきともみ、その人に会いに行きました。
音楽を全力で愛して全力で音楽を届けてくれる人、そのつづきさんの周りには当たり前に音楽を心から愛する屈強な猛者がいました。
優しい人しかおらん。
名古屋から帰りたくねぇな、夜行バスで名古屋にありがとうをツイートした。
絶対にまた来ると、斬るえむに会いに、明るい思い出をくれたその場所に行くと。
斬るえむのメンバー・DJ yusukeさんがリプをくれた。
めっちゃ泣いた
消灯された夜行バスでズビズビ泣いた。
音楽は良い御縁をくれる。

急性ストレス障害からPTSDになっていた。
それでも僕は今日も生きている。
音楽は今日もろくちゃんと一緒にいてくれる。

来いよ3月。
あの日一度死んだ僕はまだ10歳、だけど10年前とは違うんだ。
怖いものは怖い、それでいい。
お前とは墓場まで、縄で繋いで道連れだ。

次は僕が振り回す番だ。

覚悟しておけよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?