はろー、おはな

7月の最終日、髪を切ったついでに地元の花屋さんでお花を買って帰った。はじめて自分のためにお花を買ったから花瓶の用意なんて無かったし、「お花を買おう!」と衝動で動いてしまったたために、買う瞬間まで花瓶の存在をすっかり忘れていた。なんともマヌケ。

自分のためにお花を買ったことも初めてだったけど、つい先日は友人の誕生日に初めてお花を贈ったんだった。10年来のつきあいの友人(幼なじみ)に何を贈ろうか迷っていた時に、ふと高校時代の社会の先生が「将来、お花を贈れる素敵な大人になりなさいね。大人になると、お花をもらうとすごく嬉しくなるんだよ」と言っていたことを思い出した。前から何か大切な瞬間にはお花を贈りたいなぁなんて思っていた一方で、なんだかお花を贈ることが気恥ずかしいことだと思っていた。けど、もうそろそろお花が似合う大人になったんじゃない?と、この先生の言葉が後押しになってその友人に似合う色鮮やかな花が包まれた小さなブーケを贈ってみた。実際に友人から「なんかお花見てたら元気になったよ、ありがとう」と言われたとき、私は先生とその小さなブーケに感謝した。少しは素敵な大人の仲間入りができただろうか。

自分のためにお花を買ったのも「素敵な大人」に対する憧れの感情が大きかった。SNSでフォローしているモデルさんや、素敵な先輩方はみんなおうちにお花が飾ってある。昔のことばに「立てば芍薬・座れば牡丹・歩く姿は百合の花」とあるように、美しい人と花は切っても切れない関係にありそうだ。

と、ここまで話して分かるとおり、私がお花を買うきっかけは「人」が中心にあって「花」が中心ではなかった。なぜなら、私は少し前まで色鮮やかな花が苦手だった。自然界にある色の濃さ・鮮度が「命」そのものを体現しすぎていてとても怖かった。昔、友人とひまわり畑に言ったことがあったが太陽に向かって一生懸命に顔をあげているひまわりの姿に戦いて、しっかり見て回ることができなかった記憶がある。直接関係あるがわからないが、パソコンのデスクトップに内蔵されているような色鮮やかな自然の写真も苦手だった。

だがしかし、嫌いな苦手なものって自分でも予想だにしない瞬間に一気に好きになるもので。このコロナ禍で世間も生活も不安定な中、いつもと変わらず河原沿いに咲いてくれた桜に今までに感じたことない程の安心感や暖かさを感じたり。することが無くてひたすら散歩する中で、苦手だった鮮やかな花ばかり目にとまるようになったり。最終的にはその鮮やかさに元気をもらったり。 あれ!?なんだ好きじゃん!!!?  コロナ禍の生活圏で、植物が持ってる「命」の力やそのサイクルが私にとって必要なものになっていった。

話を冒頭に戻すと、地元に昔からあって、親と一緒に行ったことしかなかったお花屋さんに一人で入るのはなんだかすごく緊張して、目の前に飾られたたくさんなお花に目をくるくるさせてしまった。店員さんに「どのお花にしますか?」と声をかけられてはっとした私は、どうしても目の前の青色のお花が欲しかったけど名前がわからなかったので、ゆびを指して近くにあったプレートの名前を読んでみた。するとどうやら指した花と名前が一致していなかったようで、一瞬だけ絶妙な間が生まれたが、店員さんはとても優しい方でどちらのお花についてもしっかり説明してくれた。なにをカッコつけているんだ、すぐさま「はじめてのおつかい」であることを告白なさい。私は、正直まだ花瓶も持っていないことまで店員さんに話すと、店員さんは目を輝かせて、私が選んだ青い花に合う鮮やかなお花を紹介してくれた。やはり花にまつわる人は素敵な人なんだなと思う。

お金と管理力の都合から「デルフェモ二ウム」と「クルクマ」の二輪を購入。無事、それに見合った花瓶も見つかって実際に部屋に飾ってみると、 ほう……。雑多な部屋の君主のように凛としていて、この花に見合う部屋にきれいにしてあげないとなと思った。花にきれいにしてもらっている感覚だ。

とまあ、長々とお花を買うまでのことを書いてきました。次は黄色くてひたすら元気なお花をお呼びしてみようか。今度はちゃんと花瓶も買います。


お花


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