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[小説] ハーティング・ウィンド

 あなたがO***を訪れたのは、まさにちょうど、何度目かの痛風の発作にあなたが悩まされていた頃だった。夜行バス乗り場の近くのトイレの鏡に映されたあなたは、足を引きずると言うほどではなかったが、どこかひょこひょことした歩き方をしていて、それがこの短い旅の間中つづいたことは、なるほど、たしかにある種のきっかけに与したかもしれない。が、それについては次の次のパラグラフにて述べることにしよう。
 東経136度29分。北緯35度59分。都市を主役にした小説がしばしばするように、O***について、そんな情報を挟んでもいいのかもしれない。恐竜の骨がしばしば発掘される、恐竜の下顎のような形をしたその県をあなたが訪れるのは、しかしそのときがはじめてであった。故に、もしこのテクストをあえてジャンル分けするのだとしたら、都市小説というよりは、むしろ紀行文になるのかもしれない。ジャンル、というものに意味をいくばくかでも持たせるとしたらの話だが。
 初めて訪れるO***をあなたがゆっくりゆっくりと歩いて回ったのは、むろん先述のとおり、あなたが痛風の痛みに悩まされていたからである。しかし、ほんとうにそれだけなのだろうか? これがいささか小憎らしい問いかけであることは言うまでもない。単一の原因に基づく出来事など、そうそうに多くはないからである。
 実際、O***のリノベーションされつつある家並みは、あなたの目には「とても印象的」に映った。黒と白がつくりだす、シンプルだけれども確固たるコントラストは、シンプルゆえに確固としておりうつくしかった。もしかすると、リノベーションとは――あるいは、O***におけるリノベーションとは――いわば書籍の版面を変えるようなものであるのかもしれない。単純な刷新ではなく、もとの建物のもつ歴史という強度はそのままに、ただ、外観を少しだけ、この時代に向かって開く、とでもいえばよいのだろうか。
 碁盤の目状の町の碁盤を少しだけ使って営まれていた朝市は、この町が冬には雪に埋もれ、足跡も声も吸い込まれてしまうだろうことが織り込み済みであるかのように、ひとつのささやきのようなものとして建物の下に点在し、ずいきやトマトを売っていた。桑の実といちごのジャムを買って、あなたが通りの真正面に目を遣ると、そこには緑豊かな山がそびえていて、夏の終わり、盆地であるO***には風らしい風は吹いていない。痛みを伴う風はただ、あなたの体の中、より正確に言うのなら、あなたの左足の靴の中で猛威を振るうのみだ。あなたはホステルの水道で汲んでペットボトルに詰めた水を口にふくむ。天然の地下水だというその水は、あなたの体の中にあるありとある川へと行き渡る。けれども、あなたの体の中には「海」はない。ちょうどO***に海がないのと同じように、などといったら、いささか牽強付会に過ぎるだろうか?
 「町」はしばしば過客を歓待する。1度めなら。しかし2度め以降はどうだろう? 仏の顔も3度、と言うではないか?
 朝市をゆっくりゆっくりとひやかして、あなたは、O***の誇る名所旧跡への訪問を、あなたの中で吹いている風ゆえに、今回は見送ることを決意する。代わりに、この町で生産された蕎麦の実を原材料につくられるという十割そばを食べに行こう、と。そうしていつか、わたしの体の中ではなくわたしの外を気持ちよく風が渡る日に訪れたO***は、いったいどんな貌をしているだろうか? いつもの早足気味であるくわたしの目に映る景色は、どのように異なるだろう? 痛む足に重心をなるたけかけないようにしながら、そうあなたは考える。ゆっくりゆっくりと歩く。あなたは少しだけ微笑みを浮かべる。1週間前、iPhoneではたしかに降水確率80%が予定されていたこの日の空に、雨の影はちらとも見えなかった。

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付記:
HOSHIDOさん主催企画「KAIKO+KAIKO」(2022年8月27日、および28日、https://twitter.com/hoshido_fukui/status/1562761637995524096)のため、夜行バスで福井県大野市に行ってまいりました。これは、その体験に基づく、きわめて紀行文に近い作物、になるかと思われます。作中に書いた事情のとおり、ふだん旅でしているように街中を逍遥しまくることはかなわなかったのですが、山に抱かれた美しい町の魅力の一端でも伝えることができたなら幸いです。(ちなみに、「大野」と具体的な地名にしていないのは、私小説化することを忌避したい気持ちがなんとなくあったからです。)再訪する機会がありましたら、また違った印象を受けるかもしれないので、その時自分がどういう作品をアウトプットするのか、楽しみでなりません。

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