4月24日 生とは老・病・死
2024年4月24日 日記
祖母が足腰を疲労骨折して入院していて先日退院したので様子を見に行ったら、問題が山積みだったという話。
年末、祖母は元々悪かった足腰を悪化させて骨折した。
寝たきりで体力も落ちて爪切ることも出来ない状態だった。即入院。
入院するときはガリガリヨレヨレで、もうダメかもしれないとすら思った。
実際にはそんな心配もよそに4ヶ月毎日3時間もリハビリして、完璧な食事を食べて、退院する頃には体重も体力も元通り、握力なんて25キロくらいまで回復した。
日常の動作や歩行も問題なく出来るようになって元気よく帰ってきたのですっかり安心していた。
今日も、元気な顔を見にいくだけのつもりで祖母宅に行った。
現実は厳しかった。
寝る、起きる、立つ、座る、歩く、食べる、全ての動作ができなかった。
正確には、やろうとしなかった。
動くたびに痛い痛いと悲鳴をあげて、これ以上動くことを拒んでもう何も出来ないと嘆いて。
まだ退院して2日しか経っていないのに、できていたことが出来なくなる訳がない。
「そんな事ないよ、やればできるよ」と何度も何度も痛みの少ない動き方を教えるんだけど、そんな言葉には聞く耳も持たずため息ばかり。
1から10まで付きっきりでようやく痛みのない動き方を少し覚えてもらえたんだけど、正直かなり疲れてしまった。
途方に暮れながらも、分かったことや考えたことがあるので、今日はそれを記録に残しておこうと思う。
私の祖母のケースでは、課題が
①家という特殊性
②血の繋がり
の2つあると思った。
①家という特殊性
病院では問題なく立ったり座ったり出来ていたのに帰ってから出来ないのはなぜか。
もちろんリハビリで習ったことを実践していないという本人の問題がほとんどなんだけど、「家」っていう特殊環境に移動したのもかなり大きいと感じた。
家、それは習慣そのもの。
何十年もの間まいにち同じ動作を繰り返してきた場。
疲労骨折の原因となったのは、自宅の何気ない動作の少しずつの積み重ねだと思う。
少し低いキッチンで料理をしたり、体を捻らないと座りにくい椅子に座ったり、視線の斜め先にあるテレビを腰を捻って見たり、ソファーで編み物をしたりしゃがんで庭いじりをしたり。
本当に些細なことなんだけど積み重った結果が大きな災いを呼んでしまったのだから、家で動くことのほぼ全てが痛くなる原因なわけ。
習慣を直すのはめちゃくちゃ難しい。朝ベッドから降りる方法、ドアを開ける方法、椅子に座る方法、習慣を全て変えないと、すぐ痛くなる。
ばーちゃんは家で普段通り動こうとして、普段通りの行動の全てが痛みを悪化させた。
習ってきたことを応用すればここはこの動きをすれば痛くないな、なんて考える前に体が自然に動いてしまうのだと思う。
そんなんじゃ入院する前に逆戻りだし、「もう何も出来ない」と自信も完全に失ってた。
そりゃそうだよ、当たり前に出来てたはずの生活ができないんだもん。
(ついでに入院期間が長くて何でもやってもらっていたのでかなりボケてしまったのと、驚くほど後ろ向きな性格っていうのもある)
早くよくなって家に帰りたいっていうのは患者さんの何よりの願いなのに、家に帰ることが悪化の原因になるなんて思ってもいなかった。
入院して身につけた動きを日常で習慣化することができれば痛みもかなり解消するのだけれど、そんな日は来るんだろうか。
私でも家での習慣を突然変えるのは難しいのに、ましてや同じ家に50年住んだばーちゃんが習慣を変えるのはものすごく大変なことなのはよくわかる。
習慣の否定は自分の人生を否定するようなもの。
肉体的にも精神的にもかなり負担がかかっているのだと思う。
何とか折れずに頑張って欲しいところだけど、どうなることやら、、、。
②血の繋がり
第二の課題は、介護する側について。
血の繋がっている人、育ててもらった親や祖父母の世話をするというのは本当に難しい。
私なんかより大変な経験をしている人はこの世の中に本当にたくさんいるということは痛いほどわかるし、20年しか生きていない私の知っている難しさなんて話したって仕方ないような気もする。
でも、私を含め周りにはまだ介護の当事者になっていない人も多いと思うので一応現段階で分かったことを書いておきます。
介護ってめちゃくちゃ難しい。
私は高齢の方の接客経験が豊富だからって、なんとなく分かった気になってた。
同世代の皆さんは自分の祖父母や両親が突然赤ちゃんがえりした時のことを想像できますか?
突然、その日が来た。
とても苦しかった。
わたしの家族もそれぞれに葛藤してる。
支えることで恩返しできるというのは分かってる。
孫である私が明るくばーちゃんと接することで、息子・娘である親の負担がずっと軽減することも分かってる。
だから自分の時間の許す最大の時間を祖母のために使うし、これから長期的に支える覚悟もある。
でも、苦しい。
愛の量だけでは解決できない問題がある。
「患者の言葉を聞き、共感すること」
臨床哲学の基本。
そんなことは分かってる。
でも、家族の痛い、辛い、できないといった言葉を1日中受け止められるほど人間は強くないと思った。
家族だからこそ、辛さや絶望はダイレクトに伝わってくる。
でも支援者として気丈に振る舞って、それをプラスの方向へ持っていかないといけない。
この2つの狭間で苦しくなるのが一つ目の問題だと思う。
私の祖母の場合は特につい2日前までは出来ていた動作なのだから、思い出して実践すれば必ず出来るはずなのでそれを促すのが支援者の役割。
でも、気落ちした相手にそれを求めるのは本当に難しい。
なぜなら私にもその辛さは痛いほど分かるから。家族だから。
2つ目は親子は似ているという問題。
弱っているとその人の本性が見えるようになるというのは私の最近の気付きなのだけれど、
介護の場ではその傾向が支援者にマイナスな影響を与える。
今日祖母が散々言っていた
「やったことないから出来ない」
「痛くなるかもしれないからやりたくない」
「あの人は若いから元気があるから出来るけど、わたしはもう病気だから出来ない」
という言葉たち、聞くと何でそんなこと言うんだと怒りたくなってしまう。
でも、わたしが物事を諦めるときの言い訳の仕方と全く同じ。
「落ちると怖いから試験受けたくない」
「あの人は賢いけど自分は読字が苦手だから出来ない」
何度もこんな言い訳をしてチャンスを逃してきた、そんな記憶が蘇る。
ああこの性格は自分にも受け継がれているんだという事実に向き合い続けなくてはいけないのが、身内の介護。
自分の弱さと向き合うのは、とても苦しい。
生きることとは老いること、病むこと、死ぬこと。
生きることは苦しみ。
仏教の授業で習ったばかりの内容が急に現実味を帯びてわたしの人生にのしかかってきた。今日はそんな日だった。
少し長くなってしまいましたが、読んでくださった方がもしいたら、どうもありがとう。
どうぞ水分は1日2リットル、タンパク質は1日に60g、必ず取ってくださいね。
今日の出費
交通費 800円
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