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思い立って資格を取るまでのお話(3)

その資格を取りたい理由

 自分に保育士試験の受験資格があるとわかったその日に、私は携帯で動画を撮影した。この日が2021年の4月20日だったので、保育士について調べたのも同日ということにしている。このころの私はスマートフォンで撮影したものを編集して、簡単な動画をつくるぐらいはできた。思った日から資格取得までを動画に収めよう。自分の記録にもなるから、と、その後何度も節目や思ったことなど機会があるごとに撮影をした。以下は動画内でも語っている「保育士資格を取りたいと思った理由」。動画内ではあまり詳しくは語っていないが、くどくならない程度に、でもより詳しめに書けたらと思う。
 

自分の生育歴・親との関係


  
 サラリーマンの父、専業主婦の母のもとに、子どもは3人。私は第一子。父は今は定年退職している。ここから以降、きょうだいが登場する場合は、きょうだい共通であれば「きょうだい」、個別には「真ん中の」「下の」をつけて表現する。
 
 ここまでなら、どこにでもある一般的な家庭。さて、本当にそうだったのだろうか。

「ロコは、どの大学を受けるんだ? ○○大? そんな名前の知らないところは就職なんてできん」
「○○(きょうだい)は、△△高校? それとも、××高校?」
 その10分前には「名前よりも、そこで何をするかが大事だ」とわかったようなことを言った父の口から飛び出た言葉。学歴、上下関係、役職、肩書きなどに異様なこだわりがあるようで、過去に私たちきょうだいは、する必要がない場面で受験させられそうになったことがある。私たちはこんな父を見ては、朝令暮改ならぬ「朝令『朝』改」だと言ってため息をついた。
 さらりと何の悪気もなしに有名大学や難関校の名前を並べて
「だってお父さん、どんな学校がどんなレベルかなんてわかんないから」
と笑ってごまかしていたが、
「あれは絶対確信犯!」
と、自分やきょうだいの目は冷ややか。
 時々暴力、それに近い行為が出ることも。反抗など父にとって気に入らない行動をしたら、その倍以上の暴力(に近い行為)を伴って返ってくる。自分の考えを言いたくても、それを「反抗」と受け取られて暴力を受けるなら、母も見て見ぬフリをして助けてくれないなら、何も言わずに我慢するほうがマシ。それでいて言わないでいると「じゃあなんで言わないんだ」と返ってくる。自分の意見を言っても、言いたいのに我慢しても、どちらでも結局は責められる。
 
 母には、いつも監視されているような気がした。
 着替えなど特別な理由がある場合を除いて、部屋のドアを常に開け放しておくのが我が家のルール。10代ともなれば隠しごとのひとつやふたつぐらいあるものだが、理由は、「部屋で何をしているかわからない」。携帯電話も、「リビングに置いておくこと」が条件。当然、電話が誰からかかってきたかもわかる。自分の部屋がありながらプライバシーがないも同然。親に見つかりたくない何かをするには、常に部屋の外の物音に気を使うほどで、家の中なのに常に神経を尖らせていないといけない状況。
 当時大学生だったいとこが夏休みに遊びにきたときに、
「部屋のドアは開けているの? せめて勉強するときだけでも閉めたほうがいいよ。集中しにくいと思う」
と母に進言してくれた。そのアドバイスも、いとこが帰るとすぐになかったことになっていた。
 
 両親どちらとも。子どもの領域にも平気で手を出したり介入しようとする。通信教育の課題などは、提出する前に親の採点が入るのが当たり前。だから私やきょうだいの成績は、その通信教育の中では常に満点に近い成績。
 外に出かけるといえば、その行き先と帰宅時間をしつこく尋ねられ、親の想定より遅いと「友達に断って、(家の)夕飯に間に合うように帰ってこい」。久しぶりに会った友人と、夕食を共にするのがメインイベントだったのに。中学生や高校生じゃない、大学卒業ごろの話だ。
 また、当時人気のあった歌手のコンサートだと言うと、
「あんな半狂乱になるところはやめておけ。・・・そうだ、お母さんについていってもらいなさい」
とまで言われる始末。そのためにチケットを取ってくれた友人にもう1枚と言うわけにはいかず、泣く泣く諦めたこともある。こちらも、成人年齢を過ぎてからの話だ。
 学校の合宿など以外の外泊も、当然禁止。学生時代に打ち上げで帰りが遅くなってしまったので一人暮らしをしている友人の家に泊めてもらうと言うと、
「タクシーを使ってでも帰ってこい」
 他の友人や先輩たちは皆そうする、と言ってもだ。その状況を
「大学の先輩って、そんな常識のない人たちなんだ」
と言うので、言ったことを守るために次の打ち上げのときは別件をでっち上げて欠席したら、
「先輩の誘いを断るなんて! いくらなんでもあんたが非常識!」
と、子どもに向かって罵倒するのは当たり前。

 いつの間にか、私の行動基準は「自分の考え」ではなく「親の顔色」。

 こんな感じで、親の偏見に基づく理想像をきれいに押しつけられた形が、私たちきょうだいだ。私は両親にほめられた記憶がないし、何かと真ん中のきょうだいと比較されて育ったので、劣等感のかたまり。両親は今でも弱みを見せないし、他人のせいにして、絶対に自分の非を認めない、富士山やエベレストよりも高いプライド。
 いつでも親が優位。親を越えてはならないし、越えようとしても越えさせない。それでいて責任は他人だから、自分の手は汚れない。
 いつしか私は、親に長い鎖につながれているような窮屈さを感じるようになった。「早く自立しろ」という建前で隠して、いざ私が外へ出ようとすると
「お前は何もできないくせに」
「何もできないから、面倒をみてやってるんだ」
「好き勝手にはさせない」
と鎖を引っ張って、自分で行動をしようにも常に邪魔をされていると感じられるようになった。今でも外を歩いていると、両親あるいは両親から指示された誰かに見張られているように感じることがある。
 
 このスパイラルを断ち切るアドバイスをくれたのが、保育士になりたいと思ったきっかけをくれた、認可外保育所の園長。この園長の下で働いていたことは親には内緒にしていた(どこかでバレていたかもはしれない)。何度か親子関係について相談に乗ってもらう中で、園長が私役、私が親役で「いつも家で言われているように」と、ロールプレイングをした。
 その中で私が気づきとして感じたことは、親は私がその壁を越えようとすると、さらに壁を高くすること。その壁も越えようとすると、またさらに、と、常に私が壁を越えられないようにしていること。壁を越えることを許さないんだということ。だから、自分としては外に出たい、外に出てもっと動きたいのに、なかなか思うように出られないこと。
 園長が
「私、○○したいんだ」
と言うことに対して、どんなことを言われたか思い出しながら返した言葉には、だいたい、
「でも、○○だろ?」
「○○もできないクセに、無理に決まってるじゃない」
と、反転や否定がくっついていた。
 もちろん、親のことを完全否定はしたくない。したくないが、少々いびつだったのだろうなと思わざるを得ない。第三者の目を入れて気づかせてくれた園長には、本当にいろいろな面でお世話になった。 
 

自分の生育歴・その他との関係


 
 「いつも親から鎖につながれているような気分だった」と先述したが、本当に私は「ほめられる」ことには無縁だったと思う。幼稚園でも、何かと否定ばかりされていたような気がする。
 小柄で運動神経が皆無な私。指定された高さの鉄棒ができなくて
「あなたはできない子、お残り組」
と、他の子たちとは別の場所にわけられるのが常。先生が見ていないときに、指定より一段低いところでなら、前回りならできたのに。補助(廃タイヤだった)が1つあれば、みんなと同じところでもできるのに。
 「子どもを見る上では、子どもの活動内容やその結果だけではなく、そこに至るまでの意欲や取り組む過程にも十分に目を向ける必要がある」といった内容が、「保育原理」という科目で出てくる。幼稚園であれ保育所であれ、「子どもを見る目」に関しては変わらないだろうという前提に立つと、できる・できないのどちらか極端なものではなく、「条件付だけどできる」という曖昧な部分だってあっていいと思うのに。「私だってがんばっているのにな」と、過程を見てもらえない悲しさは、今でも残っている。
 
 またあるとき、病院に寄ってから遅れて幼稚園に行くと、たまたま主任の先生が門のところにいた。
「いつも好き嫌いばかりして給食残しているから。だから病気もするし、大きくなれないのよ」
と、笑われる。
 好き嫌いは当時からほとんどないと自覚している。にんじんやピーマンだって、皮をむいたりワタを取ったりすれば、あとは丸かじりできることが自慢だったぐらい。それを、幼稚園の給食をいつも残していたからか、事実と異なる理由を勝手に決めつけられて。当時の私はなんだかスッキリできなかったことを、今でも覚えている。
 母も何も言い返さなかった。言われた側として、どのような心境だったのだろう。
 
 他から見たらがんばりが足りないように見えていたのかもしれないが、「お前はダメだ」と言うよりは、たとえ偽りでもたったひとこと「がんばっているんだね」「前はできなかったけど、今はここまでできるようになったね」と、結果だけでなく経過を認めるようなことを言ってもらえていたら、ずいぶんとちがったのではないかと感じている。

保育士_2(2)

 相手を否定して、それを跳ね返すことで成長させようというつもりだったのかもしれない。杉江修治(★)は著書の中でハーロックの実験を引用したうえで、こう結論づけている。


 なお、賞賛する大人に対しては、子どもは認めてもらっているという感情をもち、信頼関係が芽生える条件となる。逆に叱責ばかり与える大人に対しては不信感を抱き、好意をもたなくなる。したがって、現実場面では、賞賛の積極的な意義はより重要になると考えられるのである。
 ただし、適切な賞賛の与え方は難しい。理由のない賞賛は甘えにつながる。それを受ける子どもの自己評価の基準形成にもマイナス効果をもたらす。何を賞めるかは大人にとっては緊張を要する問題である。
 

 ほめるばかりがよい、叱らないのがよいとは言わない。これを踏まえてもなお、私の場合はバランスが叱責・否定に傾いていたと感じている。
 子どもの健全な育ちと言うなら、自身の育ちは果たして健全な状態だったのだろうか? と、自分の振り返りとして専門的な視点で考えてみたい。長くなったが、これが、資格を取ろうと思った一つ目の理由だ。
 
★ 児童生徒理解の教育心理学 杉江修治 揺藍社 1999年 p.112-p.113
 

異なる2人の保育士


 
 保育士について語る上ではずせない2つめの理由に、「極端に異なる2人の保育士」との出会いがある。
 1人目は、先にも書いた認可外保育所の園長。「資格の有無ではなくて、その人の資質が大切」と言ってくださり、私と親の関係についても何度も相談に乗っていただいた。
「親が離そうとしないなら、自分で壁を壊して、鎖をちぎって離れたほうがいい。お金? そんなの二の次。ロコさんはこんなに離れようとしているのに、それでも離そうとしないのなら、一刻も早く自分から離れることを考えて」
 と、一聞すると危なっかしいことを言ったのもこの園長で、当事はそんなことはできないと思っていた。その後旦那(当時は彼氏)のツテで関西への縁ができた。その前、月に一度お互いに会うときは「親から離れる開放感」が何とも心地よかった(旦那とは、2年ぐらい遠距離恋愛をしている)。
 親元を離れるとなったら親と揉めたし、特に父親は当日の引越し業者にまでケチをつける始末。それでも
「この縁をモノにしなければ、きっと私はいつまで経っても親の元から逃れられない」
と、親元から物理的に離れることに成功した。
 今思うと、このとき物件を見に母も同伴していて、結局私が事前にリサーチしたところではなく、両親が納得したところに落ち着いた。「お母さんが安心するから、一緒に見につれていけ」ということだったが、それを言い出したのは父。本当に母が安心したかったのか、それともせめて心理的な部分だけでも両親の管理下に置いておきたかったのか。「母が安心するから」と言ったが、実は不安に思っているのは父自身で、問題ごとを他人(母)にすりかえていたのか(旦那経由でできた縁と、もうひとつ別のところで働くことになったが、後者は父の伝手)。
 ただ、今では園長の一聞すると危なっかしくも思える発言が、私の見えない鎖を断ち切る勇気ときっかけになったと思う。だから保育士試験に正式に合格したら、真っ先に報告をしたい一人でもある。
 
 園長と対極のもう1人は、この託児所で働く前のこと。学童保育で指導員として働いていた。小学生が主に放課後を過ごす場だ。指導員になれるのは教員免許所持者(幼稚園も含む)、または保育士。私も条件に当てはまった。
 ここのベテラン指導員は、保育士の有資格者とのこと。
 子どもに対して平気で怒鳴る。それも子どもの言い分を聞かずに、「うるさい! 黙れ!」と一方的に。
 さらには
「あいつは本当に生意気! こっちが言えばすぐ言い訳してくるし」
「子どもなんかに負けてないで、大人が強くなきゃ。なめられちゃいけないのよ」
と、「子どもは支配するもの」と受けて取れる発言が随所で見られた。しまいには、
「私、子どもなんて嫌いなのよね~」
と笑いながら、時には迎えに来た保護者の前でも言う始末。これにはさすがに指導員の資質について苦情が入ったらしい。他の指導員もこのベテラン指導員の姿には疑問があったようで、
「子どもに向かってものすごい圧をかけてるじゃないですか。わざと派手に足音を立てて近づいていったり、子どもが嫌いって保護者の前で言ってたり。それって何だかちがうなぁと思って」
と、私と同世代の指導員も、影でコッソリ言うようになった。日ごろの鬱憤を子ども相手に晴らしているような形だったと思う。私は一方的に理不尽に言いくるめられる子どもの姿を見て精神的に参ってしまい、この同世代の指導員と一緒に1年限りで退職した。
 
 このころ、私は「子どもの権利条約」(児童の権利に関する条約)というものがあると、初めて知った。知ったといってもそんな名前の条約があるという程度で、今も具体的にその中身を知っているかというと、自信はない。ただ、「児童の最善の利益」や「自由に自己の意見を表明する権利を確保する(意見表明権)」とあることを知り、しかもこの条約に日本が批准したのは1994年のこと。私が児童クラブで働いていたのは、批准から10年ほど経った後。
 私も人のことは言えないが、こんな「ステキな」条約があるとは知らなかった。ちゃんと子どもが意見を表明することを保障もしている。子どもに携わる立場にいながら、この人たちは子どもの権利条約について知っているのだろうか?
 と思って、あるとき、
「子どもの権利条約っていうのがあって、そこでは『子どもも意見を言える一人』としてとらえられているんですって」
と、 日本もこの条約に批准しているとは言わずに、付け焼刃の知識をベテラン指導員に言ってみた。すると、「は? 何それ? やめてよ。そんなの認めてたら、子どもがもっと我がままになって付け上がるだけじゃないの」
 と、あざ笑うように返ってきた。
 やっぱりそういう反応か、とがっかり。ベテラン指導員が保育士資格を取得したのは、恐らく子どもの権利条約に日本が批准する前だろう。それを差し引いても、この人はどこまでも「子どもであってもひとりの人間」という感覚がないし、この先ももつつもりはないんだろうなと思えた。
 当時の子どものこんな声が、今の私にも突き刺さっている。
「ここって、『○○こどもハウス』っていうんだよね」
「うん、そうだよ? なんで?」
「ここには、子どもはいないね」
 
 それからすぐ、先の園長の元で働くようになった。園長も子どもの権利条約に批准する前に保育士資格を取ったであろう人。同じ有資格者でこのちがいは何だろう? と、保育士という存在に興味をもつようになった。試験の実例問題などから推察すると、児童クラブのベテラン指導員はだいたい誤答に選ばれるようなことをしていたので、資質のうえで「保育士」と名乗って差し支えがないのは、ベテラン指導員よりも認可外保育所の園長のほうになるだろう。
「私たちはただの通りすがりのオバサンなの」
と、自分たちの言動なんて子どもに影響を与えるわけがないわ、と豪語していたベテラン指導員のような保育士は、いったいどうしたら生まれるのだろう? 何をもっての保育士なんだろう? とギャップに疑問を感じたのが、2つめの理由だ。
   

日常的に接する保育士の姿から


 普段、日中は子どもを保育園にお願いしている。こと、この数年は新型ウィルスの流行もあり、今までやってきたことがやれなかったり、方針がコロコロと変わる中で、振り回されっぱなしだろう。それでも創意工夫のもと、保育園には日々お世話になりっぱなしだ。
 ほんのわずかだけど「業務としての保育」をかじった立場として、その大変さは重々承知しているつもりだけど、相手の立場をより知った上で自分にも何かできることはあるのではないか、と感じるようになったのが、3つめの理由だ。
 
 保育士ができる業務は、実は子どもに関することだけではない。広く言えば「子どもに関すること」になるのかもはしれないが、子ども自身の保育はもちろんのこと、「保護者への援助、助言」も業務に含まれる。
 保育士は子どものみではなく、「子どもを中心に、保護者を含む周囲」も視野に入れる必要があると知って、そういえば認可外保育所の園長は、スタッフだけでなく保護者の方とも面談などをしていたなと思い出した。スタッフとの面談は、「スタッフ自身が自身を振り返り、次に活かす」ことのひとつのきっかけとなり、結果それが資質の向上になる。
「ロコちゃん、何なら私が働いているところに来る? 常時仲間を募集中よ? う~んとね、とにかく『磨かれる!』」
 児童クラブを辞めるつもりで、辞めたあとどうしようかと知り合いに相談したことで、認可外保育所と縁ができた。この知り合いが言っていた「磨かれる」って、つまりは資質の向上ってことだったんだと、「保育原理」を学びながら気がついた(★2) 。
 保護者の方との面談も、立ち話程度ではなく、かなりしっかり時間をとっていたように思う。認可外保育所の園長は、その施設の長として、もちろん保育士として、子どもだけでなく「子どもに関係する周囲の部分も」含めてとらえることができていたんだなと感じる(このあたりについては、後に現役保育士のママ友からアドバイスをもらうので、後述の予定)。
 私の日常の業務は、フリースクールのスタッフ。当初は自分の体験などをもとに、保護者ではなく子どもに特化して寄り添いたいと思いながら活動をしてきた。子どもが生まれて親になると、少しずつではあるが親の立場での悩みが実感でわかるようになった。そうすると今度は、子どもだけでなく保護者にも寄り添いたいと思うようになった。
 保育士はこの両方を兼ね備え、「橋渡し」をすることができる資格ではないか! 俄然興味がわいた。

 以上ここまでの3つが主な理由で。大卒であれば保育士資格を取るために改めて学校に行く必要はなく、自分で勉強を進める形でも資格を取得できる(もちろん学校に行って取得する方法もある)。
 これはもう、単に興味があるだけではなく、取れと言われているようなものではないか!

 こうして私は、保育士資格を取得するため、まずは1年を目処に勉強してみることにした。何をもって1年と思ったのかは、詳しくは覚えていない。覚えていないが、理由があるとすれば、上の子が翌年(2022年)には6歳。年長児のあいだに取得すれば、小学校入学のころまでに、保育士資格を活かす方向でさらに仕事を確立することができる。フリースクールの業務に保育士としての役割も絡めていくことで、子どもに恥じない、そして自分にも今以上に自信としたかった、のかもしれない。
 恥ずかしながら、当時は保育士試験(筆記)が4月と10月に実施されていることも知らなかった。それ以前に、今まで何をやっても長続きしなかった私のことだ。1年続かず、どこかで挫折するだろうと頭の片隅では思っていたぐらい、「自分を信じること」ができていなかった。
 このころ本業は、新型ウィルス禍で少々ヒマ。自己投資をするなら、比較的時間がある今しかない!
 
 これで、私は保育士資格を取る! と目標が定まった。定まったといっても、この当時はまだふわふわした、「1年後ぐらいに取れればいいな」程度のものだった。
 後に、この決意が固くなる時があるのだが、それはまた、いずれ。

(★2)職員の自己評価、施設長の責務については、「保育所保育指針」でも触れられている。

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