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私がしがみついていたものは、私の人生において 重要ではなかった


打ち合わせがあり、八ヶ岳を訪れた。
待ち合わせの時間まで1時間近く早く到着し
大きく吸いたくなる空気があまりにも
気持ち良すぎて駅から緑のある方へ
歩いてみることにした。


山に囲まれているパノラマの世界と
絵に描いたような雲を眺めながら
田んぼ道を一人歩き


ふと、座りたくなり
田んぼのそばの水路に腰をかけて、空を眺めた。
燦々と降り注ぐ太陽の下で、わずかに
肩に風を感じた時、そこには何者でもない
自分がいた。

私の頑張ってきた実績も取り繕ってきた外見も
そこには必要がなくて
会社とか枠組みのない世界に身をおいたとき


「私がしがみついていたものは、私の人生に
おいて 重要ではなかった」とふと思った。


正しくは、「今の私には必要がない」だ。



当時の私は、社会についていくために
自分を認めてもらうために、愛されるために
ずっと何かを追い求めていた。



「頑張れば私を見てもらえる」
それが本当に嬉しかった。



いつしか、そんな純粋な思いが
「他の人より評価されたい」
「私を満たしてほしい」
「今のままの私は不充分だから、
何かを足さないといけない」
と、他人からもらうことにウェイトが多くなっていた。


そして、学びや承認や
誰かから何かを得ることを
自分の喜びとすり替えていた。


大自然に身を置いたとき
誰も私のことを見ていない
誰も私のことを評価していない
そんな感覚を「体感」した時に



「私が欲しいものは何だろう?」と思った。
常にポジティブに励ましてくれる
相手でもないし

使命感いっぱいに社会で戦い続ける
バイタリティでもないし

その場限りの一瞬で消えてしまう儚さや
激情的な愛でもないし

人から羨ましがれられる地位や
着飾ったものでもないし



ただ、安心できて、私が力を抜くことができること
そして、頑張らないと手に入れられないものではなく
当たり前のようにそばにあることに感謝ができる毎日。



 「あ〜これに気づけただけで、
ここに来てよかった」 と思った。


でも、今の私にとっては最優先で
必要ではないことも
あの時の私にとっては、
ダイヤモンドのような
キラキラした宝物だった。



そして、当時の私が生き抜いていくためには
なくてはならないものだった。


そう思えたら、
過去の執着にも似た大切な思い出が
とても温かく、
そこに確かな愛を感じて
心からの ありがとうと共に涙が溢れた。



当時は、孤独感から抜け出せなくて、
一人ぼっちだった私を
全力で守ろうとしてくれた世界が
そこにはあった。


あの時、必死になっていたのは
他人を通して守りたかった自分。

そして、私がいたことで
誰かを守れていたこともやっと
感じることができた。
必然だった別れも。


全部全部、手に取るようにわかって
顔を手で覆い、目が真っ赤になるほど
泣いた。




それが終わりを告げることも
始まりであることもたくさん感じ
やっとフラットな状態に立ち帰れた
体験ができた初めての八ヶ岳。



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