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0コンマ何秒の本音を拾ってあげよう



何かを書いたりするとき、仕事で思考に集中したいときや、自分の中のもやもやを紐解きたいとき、心のままに物事を進めたいときは、自分の頭の中に雑念をおかない環境をあえて作り出すようにしている。

基本、私の場合は、歩いているときに潜在意識化の言葉がぽんっとでてくることが多く、歩きながら胸の奥に「ことば」がいっぱいになり、立ち止まり携帯のメモに一気に書き出し、また歩をすすめ……。という場合が多い。


もしくは、お気に入りのカフェでイヤフォン越しに、自分の感情にダイレクトに心地よく言葉がリンクする音楽を比較的大きな音で聴いている時、一気にタイピングが進む。


余計な思考を踏み込ませない環境を自分でつくっている

最近、会社からの帰り道、いつものように足早で歩いていると(今日はそのモードと思ったらバスに乗らずに30分もくもくと歩いて帰る)



ふと、罪悪感ってその問題から逃げたいからくる手段なんじゃないかと頭をよぎった。ある意味、防衛反応?みたいなものなのかもしれないなと。




私は結構な確率で「罪悪感」という名の、自分を責めて問題を解決させることが多い。


例えば、
プロジェクトが失敗した時
家族のコミュニケーションがうまくかない時
誰かを傷つけてしまった時
理不尽であっても誰かから責められた時
不慮の事故を起こしてしまった時
大切な人の期待に応えらなかった時
大切な人の愛情を受け取れない時
大切の人の助けになれない時




自分の無力さを責め、ほおっておくと、どんどん沼にはまり、終いには自分の存在価値をなくそうとまでする。自分が悪いと片付けてしまえば、一旦は事を終わらせることができる。


でも、いつものごとく歩きながら「本当にそれでいいのかな?」という疑問がわいてきた。


それって、そこから向き合いたくない、面倒臭い、本当のことに目を向けて傷つきたくない、誰かを傷つけているという自分に向き合いたくない


だから思考を止めているだけじゃないのかな?




それは、ある意味誰かが作った価値観や自分の過去の傷ついた経験に基づく「こうすべき」にしばられている終末に思う。



傷つけたくないんじゃなく自分が悪者になりたくないだけ。それは裏返せば誰かを責める気持ちに変わる時もある。


「誰かを責める、私を責める」その裏側にはきっと「私は本当はこうしたい」が隠れている。



自分のせいになぜするのか?本当の気持ちに触れる、本当はどうしたいかに触れるのが怖いだけなのではないか?「わたしの責任です」という名の偽善の罪悪感のように思えてきた。


考えつくと、結局は自分の弱さをまた目の当たりにする。


そこに気づき、それを言葉にしてみると「聞いたことがあるかもしれない話」なんて思ったりするけれど、自分の肌で感じて自分に落とすまでにはかなりの時間がかかる。


「私は本当は悲しい」「私はこうしたい」
私の本音なんて0コンマ何秒しか表面化されなくて、即座に思考にかきけされてしまう。




「これを言ったらきっとこうなって、こんな可能性もあって……」という、妄想劇が始まる。だから偽善で固めるし、偽りの本音を積み重ねていき、あたかもこれがありのままの自分のように、自分でさえも誤魔化されていく。それが、ひねくりまわって表に出た結果が私の中の「罪悪感」なのだろう。



人と対峙する時、比較的相手の本音は肌で感じることができるのに、自分の本音は即座にシャッターを降ろす。



誰かに何かを伝えるわけではないけど、これを自分が気づいているかがとても大切だなと思った。



「0コンマ何秒の本音を救いあげる」
自分だけでも自分の感情を拾い上げてあげることが大切。


それを繰り返していくとたまに、会った瞬間、私の思考や感情を飛びこえて、潜在化にある私の声に触れ、その空気に身を包まれさるだけで涙がとめどめなく溢れる出会いがある。





40年生きてきて、そんな奇跡的な出会いは僅かだけど、その1人にも出会えない人もたくさんいて、私は、その奇跡を私の運の強さと原動力に変えるしかない。


でも「奇跡のその人」は、他人の可能性もあり、自分自身がその存在になれる可能性もある。


ごまかさずに、自分の中だけにでも表面化させて、明らかにしていくこと。
これが、小さな幸せを見つけに行く道筋にもなる。

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